April 25, 2005
最後かも知れない。
授業のフィールドワークで、とある場所に行ってきたんだけど、すごく楽しかった。
誤解されそうな場所だけどね。
認知学習論でいう、文脈化された学習の効果というものの威力を実感した。
同い年なのに、すごく大人で頭のいい人がいた。
+
今期はどの授業も楽しい。
一週間がすごく充実している。
今月に入って、何をしたのか思い出せない日がない。
これで最後かも知れないと思うからかな。
もう、こんな素敵な朝や、輝いた昼下がりはないのかも知れない。
普通、振り返った時にものごとは綺麗に見えるものだけど、
最近は今まさにここにいることが、どうしようもなく愛しい。
まるで思い出の中を生きているみたいだ。
帰りたくて帰りたくて仕方なくて、でも決して戻れない日々を生きているみたいだ。
最後かも知れない。
そう思えることで、本気になれること。
それはハイデガーのいう本来的な存在に近づけるということかな(たぶん違う)。
死刑囚になってはじめて生を実感できるように、
終わりを意識してはじめて、その場所を主体的に歩けるようになる。
でも、本当は誰もが、やがて死にゆく存在である以上、
別に小菅拘置所の0番地区にいる人々だけが死刑囚なわけじゃない。
人は誰でもいつともわからない死を待つ死刑囚だ。
問題は、それに気付けたか、気付けないか。
最後になる前に気付けて、良かったのかな。
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加害者を非難する声が
今日も画面を埋めてゆく
無責任な怒りが
無関心な横顔を通り過ぎる
あなたの
主語は誰なの
あなたは
誰の想いを伝えているの
淋しさを救うのは
強さなんかじゃない
たとえば隣にいてくれる
いつまでも隣にいてくれる淋しさでいい
繕いのことばも
謝罪を促す罵倒も
宙をたゆたうだけ
こたえを
欲しがる魁の夢
もう
あなたは帰ったのに
投稿者 POE : April 25, 2005 10:30 EM
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