Mars 29, 2006
「ごめんなさい」
世界中では数え切れないくらいの「ごめんなさい」が毎日飛び交っている。百億円の損害を出して「ごめんなさい」。ポッキーのかわりにMIKADOを買ってしまって「ごめんなさい」。間違ってトイレの水を凍らせてカキ氷を作ってしまって「ごめんなさい」。
色々なスタイルの謝り方があるけれど、さすが歴史あるものだけあって、謝り方なんてものの公式はそこらじゅうにあふれている。
たとえば次に引用する文は謝罪の見本ともいえるようなもの。試合が行われる場合は本来は授業を休講とすべきなのだけど、変わりやすい天気の関係で、試合が行われたにも関わらず授業を休講としなかったときの、学部長による謝罪。
2005年6月3日総合政策学部長 小島朋之
環境情報学部長 熊坂賢次
慶早戦をめぐる5月30日(月)と31日(火)の授業の扱いについて、状況説明と今後の対応方針を明確にする。
状況説明
30日(月)朝7時に、責任者の小島は、その時点では雨が降っていたが、多くの天気予報は午後に曇りと予想していたので、試合は決行されるだろうと判断し、休講の決定を下した。その結果、7時30分にSFC公式サイトに休講のニュースを載せた。しかし9時過ぎに、野球連盟が早々と試合中止を決定し、休講の判断がミスであることが判明した。ただすでに休講を出しており、それをすぐに変更しても、教員と学生の混乱を招くだけだ、という判断から、終日休講にすることを決定した。
31日(火)については、朝7時に、熊坂が、前日と同様に雨模様であり、しかも天気概況も夕方まで降雨が続くという報道もあることから、授業実施を決断し、7時30分に公式サイトにニュースを載せるよう指示した。9時過ぎの授業でも、雨模様は続いていた。しかし前日とは違って、連盟からの試合中止の連絡はなく、そのまま時間は経過していった。連盟でも試合の中止か決行かの決断が遅れ、11時過ぎになって、選手たちが練習をし始めたらしい、という情報が入ってきた。そして12時前に、連盟の試合決行の情報が確認された。この段階では、たとえ授業を中止にしたとしても、神宮球場に行くことは不可能なので、休講に変更することはしなかった。ただ放送局で野球中継があれば、3時限目以降θ館を使って、みんなで応援することもありえたので、その可能性を調べたが、中継放送がないことが判明し、そのアイディアも消滅した。そして授業はそのまま継続された。
今後の対応方針
31日(火)には、10名程度の学生から判断ミスに対する怒りのメールや電話があった。多くの学生が今回の判断ミスに対して不満を抱いたことは、十分に想像できる。しかし今回のような微妙な天候状態で、しかも連盟の決定以前に意思決定しなければならないという条件下では、このような判断ミスの回避は困難であり、二日連続の判断ミスは、ミスした本人が言うのもなんだが、十分にありうると思う。とすれば、今回のようなミスを誘発するシステムに問題があるから、それを修正すべきだ、ということになる。ただこれについても、SFCにはいろいろ試行錯誤を繰り返してきた歴史がある。やはり藤沢という遠隔地の影響が大きく、一度決断すると、その変更は容易にはできないのである。ただ今度の対策として、たとえば、学生と教員がこのような状況下で1時間ごとに公式サイトのニュースをみることがルールとして合意されていれば、今度の対応はかなり柔軟にできるはずである。つまりすべての学生と教員が時々刻々変更される情報を共有することが可能ならば、遠隔地のSFCであっても、それなりの対応が可能である。今後の対応については、このようなルールの周知徹底ができるような仕組みを検討して、今回のような事態を回避するように努めていきたい。最後に、判断ミスしたことに、多くのみなさんに陳謝します。ごめんなさい。
http://www.sfc.keio.ac.jp/students_soukan/news/articles/20050603_2363.html
自分が置かれた状況を述べ、いかに判断が難しかったかを強調し、今後の妥当と思われる対応策について言及し、最後に素直にあやまる。
素直にあやまるということは、メーカーのクレーム係でも常識。「しかし」とか言って言い訳をする前にまず謝る。相手が怒りをぶつけてくる場合、当然相手は謝罪の言葉をまず期待しているんだから。そして相手の口をふさいではいけない。相手が言いたいことを言い終わるまで、辛抱強く聞く。そして、状況を把握できてから、問題点を把握、瑕疵の所在をあきらかにしつつ、相手との妥協点を考えていく。(訪問謝罪の場合は歯痛のときのような顔をするとか色々テクニックは他にもあるんだけど)
だけど、色々なマニュアルがあったとしても、それでも謝罪はとても難しい。曖昧なまま笑顔で「ごめん」というくらいならいい。だけど、切実に考えたとき、誰のいつのどんな行為にたいして、そしてそれが及ぼした何に対する謝罪なのかという問題を「ごめんなさい」は含んでくる。
メーカーのマニュアルが教えるように、相手が求めているものに答える(もしくはそれに近づく道を探してゆく)謝罪が一番賢い方法なのかも知れないけど、それは謝罪をコミュニケーションとして考えたとき、一方的なそれになってしまう。企業とお客様なら一方的な関係でなんら問題はなさそうだけど、じゃあ個人間での謝罪になったとき、それは何か違う気がする。その場限りの人間ならいざ知らず(怖い人の車をぶつけたとか)。
だけど、ここでもう一つの難しさ。相手の気持ちは相手にとって絶対であるけど、それは完全には共有不可能なものであるということ。人と人の気持ちは、幻想のおいてしか重なれない。同じものを同じ角度で見ているときも、感じていることは違う。僕の「悲しい」は「僕」にとっては紛れもない事実だけど、それは「僕」の頭の中の水槽の中での出来事。
「ごめんなさい」の難しさは、「あいしてる」の難しさと同じ気がする。
というわけで、長くなってしまってごめんなさい。しかも結論がつけたしみたいでごめんなさい。とりえあず、あやまっておきました。
投稿者 POE : Mars 29, 2006 03:38 EM
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