気持ち悪い程に晴れた朝だった
霧島夕子は屋上へ続く階段を昇り、ドアノブに手をかけた。開いたドアの先は朝方看護婦が干していた白いシーツが風に揺れるだけの人気の無い空間が広がるだけだった。屋上に来るのはこれが初めてでは無い。二週間程前にこの病院に入院してからというもの、晴れた日には必ずここを訪れている。ただ、梅雨時という時期が時期だけにまだ三回程しかその機会に恵まれていなかったが。お世辞にも新しいとは言えないこの病院の屋上は、北側の一番端だけフェンスが壊れている。
夕子はいつものようにそこへ来るとフェンスの隙間をくぐってコンクリートの縁に座り、先日買って貰ったばかりのヴィヴィアンのライターを点けた。時折足をぶらつかせながら下を見下ろせば、右側には外来受付が始まり俄かに慌しくなり始めた駐車場、左側には病院の裏の雑木林が広がっている。オレンジの炎はゆらゆら揺れてまるで右と左の世界が溶けて混ざる様な気がした。
今飛ぶなら絶対に右だ、と夕子は思う。理由は簡単、コンクリートにぶつかった方が確実に死ねるだろうから。
「左にしなさいよ」
夕子は振り返った。その声の主であろう人物は青い患者服を風にはためかせながらフェンスの内側に立っている。長い黒髪で年は一緒くらいか少し上だろうか。逆光で酷く無表情に見える。
「左で死んだ人はまだ居ないわ。それで死ねたらアナタ一番よ」
「別にそんな一番になんかなりたくないわよ」
夕子はフェンスの内側を睨んだ。彼女はククッと笑って続けた。
「あら、ごめんなさい。死にたいんだと思って、でも悪気はなかったのよ。霧島夕子さん」
彼女は静かに夕子を見下ろした。目が合ったかと思うと口端を吊り上げて笑いそのままフェンスの隙間を
通り抜ける。夕子の隣に立ったかと思いきやそのまま反対方向にコンクリートの縁をつたって歩き始めた。
「あんた、ここの患者なの?」
「そうよ、一応ね」
振り向きもせずに答えが返ってきた。風になびく黒髪が太陽の光を受けて眩しい。夕子は目を細めた。
「下半分が赤い色ガラス、上半分が素通しの眼鏡をかけて色丸の集合図の上を絵筆でなぞるの。首を上下に動かしながら必死で道をたどるのよ。それも、毎日」
「それって何の治療なわけ?」
「非科学的に定義されたものよ。医者って意外と文学少年なのね」
そう言って彼女はくるりと身を翻すと今度はこちらへ向かって歩いてきた。ふと足下を見れば先程まばらに空いていた駐車場が車で埋め尽くされている。屋上は病院の11階にある。下に居る人から見たら自分達はあたかも自殺する人に見えそうだ、と夕子はぼんやり思う。フェンスに手を掛けるとおもむろに立ち上がった。
「やっぱり死ぬ気だったんじゃない」
彼女は夕子の側まで近寄ると抑揚の少ない淡々とした声で言った。
「だったら左がいいわ。だって今までみんな右なのよ。そんなの死ぬに決まってるけどつまらないじゃない。ここ
までは自殺者のお決まりのコースだわ。でも左はアナタが初めてよ」
「悪いけど、死ぬとしてもあんたに指図されるのはごめんだわ」
夕子はそう言うと数メートル先にある影を睨み付けた。
「あらごめんなさい気を悪くしないで。あたしは希望を言っただけよ。だってずっとここに居ると高さにも狭さにも
風にも慣れちゃうのよ。わざわざ飛ぼうって気にならないの。慣れって怖いわ、でも、今まで自殺した人はずっとここに居て慣れてる筈なのにそれでも飛ぼうなんて何かよっぽど理由があったのね。それが何だったのかは
解らないけど、いや、解らないからこそここに来てちょっとでもその理由が解りたいのかもしれないわ」
両手を広げると彼女はフェンスを背にして立った。
「でもそうね、解りたいなら飛べばよかったんだわ」
そう言って彼女はまたニッと笑うとその身体がグラリと傾いた。今ここで彼女が死んだら自分は後で警察に何か聞かれるだろうか、友達でもない今日会ったばかりなのに何て言おう、いろんな事が頭の中を駆け巡る。でも、とりあえずその瞬間は見たくないので反射的に目をギュッと瞑った。程なくして鈍い音が地面の方から聞こえた気がした。
「バカね、ほんとに飛ぶと思ったの?」
不意に足下の方から声が聞こえた。ゆっくり目を開けて下を覗くと、そこには飛び降りた筈の彼女が立っている。夕子は慌てて下を見た。するとそこには今夕子が居る位置よりもう少しだけ低い段が確かにある。全然気づかなかった。まだ3回程しかここを訪れていない夕子にとっては当たり前かもしれないが。
「無い筈だと思うから見えないのよ。案外世界ってそういうものなのよ」
夕子を見上げながら彼女は続ける。今度は太陽が照らしているので顔がよく見えた。長い髪と同じ黒い目の意思の強そうなそれでいて太陽の下とは思えないほどの青白い肌が映えてなんだか気味が悪い程だった。
「あたしの血は灰色なの。最初からそうなのよ嘘じゃないわ。世界の色は固定されてるって文学好きな医者が言うわ。でもそんな事は無い筈よ。確かにいろんな波長の光の集合体としては実在するかもしれない、けどそれを認識する方法は一人ひとり違うじゃない。最初に光を受け取る網膜の細胞が波長を区別するために働く蛋白質の遺伝子には多種類の変異が見られる、つまり、色をどのように識別するかは生物にとってあまり重要ではないから多様性が現在に至るまで残っているとも言える。次に、網膜からの信号は能の視覚中枢に送られて情報処理されるけど、外界の物体の形と色がどう認識されるかは、能に蓄積された過去構造さえ、過去の経験や訓練によって変化する。従って、すべての人達が同じ色として認識するのではなくて、各人の多様性に従って認識していることになる」
彼女に手招きされるがまま夕子は一段下に降りた。成る程ここに降りれば死ぬことは無い筈だ。しかし無いから見えなかったのでは無い、気づかなかっただけで無いとは思ってはいない筈だと自問自答しつつ隣を見れ
ば涼しげな顔がそこにある。
「確かにあんたの言う通りだったとしても、光が無ければ何も見えない。光が無くなったら方法はもとより認識なんて無理だわ。あたしの目はもうすぐ見えなくなるんだって医者が言ってた、止められないんだって。ねえ、も
うすぐあたしの世界は無くなるのよ。そんなの信じられる?そんなの耐えられないわ。そうね、あんたの言う通
り左に飛んでみるのもいいかもしれない」
そう、夕子の目はあと数ヶ月すると失明する。原因は限りなく不明に近い。二週間程前から入院している理由もそれだ、最善の方法を検討するべく治療法を次から次へと試してはいるがいっこうに回復に向かう気配は無い。そもそも原因が不明であるのに治療など出来るものなのだろうか、本当は珍しい研究材料として次の学会に発表する論文の題材として、医者の地位を高めるだけのためにここに閉じ込められているのでは無かろうか、考えればキリが無い。
「それならあたしも同じよ、アナタと」
「あんたも失明するの?」
夕子が尋ねると彼女は笑って言った。
「いいえ。あたしはもともとアナタ達の見えてる世界なんて見えないの。知ってるかしら、あたしは赤が見えない
のよ。赤が見えないっていうのは「明」が見えないってことでしょ。「明」じゃないなら「暗」、あたしにはアナタ達
の言う「暗」しか無いの」
「色覚異常は失明じゃないわ」
「そうね、科学的には、そうね。でも知ってる?色覚異常の定義、すごく非科学的なものよ。いっそのこと文学的とでも言った方が当て嵌まるくらいにね。赤錐体の感度がたまたま低い人が少なかったから、そうでない人が正常で、でもその違いなんてほんの少し視物質のアミノ酸配列が違うだけ。例えて言えば人間の肌の色が違う、その色素の濃度くらいのものだわ。それなのにそのほんの少しの違いだけで、大多数の人が見えている赤が見えないだけで、あたしは異常なのよ。あたしの見えている世界も色も否定される」
確かに、色覚異常でも普通に生活出来るし活躍している人も沢山いる。けれどやっぱり何かしら見えている色が普通の人とは違うのだ。もちろん支障だってあるに違いない、それを異常と呼ばずして何と呼ぶのか。割り当てられた名前はごく当然のことに思えるのは自分が大多数の正常な目を持っているからなのだろうか。少なくともあと何ヶ月かは。
「さっきも言ったけど、認識なんて人それぞれなのよ。だからアナタも悲観することなんて無いわ、ちょっと見え
方が変わって世界が変わるだけなのよ。最初は戸惑うかもしれないけど、そのうち慣れるわ。慣れるって怖い
けど凄いことでもあるのよ。だってこんな高い所も怖くなくなるの、それと一緒よ。慣れれば怖くなんてなくなる
わ、でも、それでも死にたくなったらあたしも一緒に連れてって」
そう言って彼女は夕子に抱きついた。
「ちょっとあんた頭沸いてんじゃないの?」
「別に。ただ、飛んでみたかっただけよ、アナタと」
彼女は気にも留めず夕子の首筋に顔を埋めたまま言う。不意に顔を上げたので目が合った。それにしてもこの距離はおかしい。恋人同士ならともかく、身も知らない今日会ったばかりのそれも女.
「あたし、アナタが好きなのよ」
「はぁ?何言って…」
「嘘よ」
ククッと彼女は笑うと夕子の首の後ろで組んでいた手を外してコンクリートの地面に座った。
「でも死にたくなったらあたしも呼んで頂戴。一緒に左に飛びましょうよ、それで死ねたらあたし達一番だわ」
「それって死ぬなって言ってるわけ?」
「そんな事言って無いわ。言ったじゃない、アナタと飛んでみたいって。その後の言葉は嘘だけどコレは有効だわ」
そう言って彼女は立ち上がると一段上にあがった。夕子のいる位置からは丁度コンクリートの段が邪魔をして
フェンスまでは見えない。彼女はもうフェンスをくぐったのだろうか、屋上にまだ居るのかそれとももう居なくなったのか、どちらにしろ夕子にはもう見えないのだ。けれどちゃんと自分はここに立っている。そうか、そういうことか、と夕子は思った。 |