メディアは必ず独自のコミュニケーションと形式、コードを持っている。そして、その形式とコードの背後には、なんらかの合理性が存在する(ということは、同時に非合理性も)。もし、内容的に同意できても、ある議論に違和感や既視感があるとすれば、内容ではなくその議論に使用しているメディアの耐久性に問題があるのかもしれない。実際、人文社会科学の理論的水準での到達点は、哲学も社会理論も形式は違えどかなり近い。
その観点から昨今の社会分析や社会批評を振り返ると、どうにも「善し悪し」や「是非」を判断するどうにも意味や価値観に基づく仕事が多いように感じる。本来、社会分析とは、「社会的事実をもののように見る」(デュルケム)ことではなかったか。
それに対するひとつのオルタナティブが『思想地図』vol.2(NHK出版)の「ソシオフィジクスは可能か」座談会の試みだったのかもしれない。「ソシオフィジクス」というのは、社会を意味するsocioと物理学を意味するphysicsを掛け合わせた造語だけれども、欧米ではphysics of societyやsocial physicsの伝統が今も生きていて著作も出版されている。こうした知的伝統は社会学の祖にあたる先のデュルケムやコント、ケトレーらに遡ることができる。そして、ネットワークやロングテールなどを介して主題レベルで人文・社会科学と自然科学が接近しつつある中で、改めてこうした議論が見直されているのが現状だ。
もちろんそうした「社会的事実をもののように見る」physics of societyや social physicsも独自のコミュニケーションや形式を持っており、それは価値観から脱することでを意味しない。「社会的事実をもののように見る」という態度は、「社会的事実をもののように見る」という価値観を帯びるし、批評性のなさは、「批評性のなさ」という批評性を必ず帯びる。社会学者ニクラス・ルーマンは、古典理論家の概念の使用とデータの陳述に終止し固有のコミュニケーションを確立できないという自身の社会学に対する問題意識から、オルタナティブとしてシステム理論の用語系という「新しい形式」の使用を試みた。ルーマンのシステム理論的記述が社会学に根付くには至らなかったが、このルーマンの試みは社会学のみならず注目に値する。
社会分析や批評に、閉塞感や既視感があるとすれば、内容ではなくそこで使用されている形式に問題があるのかもしれない。内容のみならず、その形式や方法を考えることに、もしかすると「ゼロ年代」の次があるのかもしれない。

