『思想地図』関連のイベント、「ポスト・ゼロ年代の思想」に行ってきた。評論家の東浩紀さん、美術家、批評家の黒瀬陽平くん、文芸評論家の福嶋亮大さんの鼎談。
結論から先にいえば、出発直前にちょっと危惧したように、現代美術にも、アニメ、ラノベ的なものにも詳しくない僕にとっては、話されているコンテンツとその内容についてほとんど理解できないイベントだった。
現存するあらゆる問題を俎上にあげることはできないし、いろいろなリソースの制約が存在するとはいえ、東さん、宇野さんと継承されてきた「ゼロ年代の思想」を乗り越えるような「ポスト・ゼロ年代の思想」が十分に語られた場だったとは思えない。
後半東さんが宇野常寛さんを引きながら「戦わないことというのも、戦いにおける意見表明のひとつである」というようなことをいっていたけれど、これはやはりそのとおりで、批評のみならず資本主義社会のあらゆる事柄について言えよう。もちろん地域やコミュニティの問題も例外ではない。そして東さんも言っていたように、このロジックはかなり強い。
横槍ついでに、個人的な批評家観をまとめてみると、批評家というのは、コンテンツについて、1)特異な人称性のもと、2)インデックス生成機能と3)誤配も含めた文脈接続機能を有する仕事をする人なのではないだろうか。つまり学問や実証、科学的知識等々ではなくある種のたたずまいを背景に、一般の消費者が知りえない独自のコンテンツのインデックスと文脈接続に取り組む人と定義することで、例えば学者とは異なる批評家という独自の立ち位置が明確になるような気がする。さらに、これもやはり僕の乏しいアニメやラノベ観からの類推にすぎないが、映画や純文学と比べてコンテンツの絶対量が多くないポピュラーカルチャー批評を行う場合、インデックス生成機能では特異なポジションには到達しにくいので、誤配も含めた文脈接続機能がより重要になるのではないだろうか。
宇野さんの場合、立ち位置がロジカルに強いという点と僕のようなサブカルチャーに詳しくない人間にも理解できる有名な対象を扱うことで、誤配込みの文脈接続的な仕事を行っている点も特筆できる。その意味では、「批評とは何か」「批評家とは何か」についての問題について、もっと若手の批評家の人たちは真剣に考えなくて大丈夫なのだろうかと他人事ながら心配になった。
以下はとても個人的なことだけれど、打ち上げの3次会で(実は初めてお話させていただいた)福嶋さんとルーマンについて議論できたこと、かなり久々に藤田君、坂上君、峰尾君、村上さん、廣田さんなどゼロアカ関係の人たちと話せたことも有意義であった。ゼロアカは、なんというか平和な『思想地図』と比べてかなりハードな事態になった(なっている?)みたいだけれど、少なくとも僕の知っている数少ない同世代の書き手候補の人たちなので単純にイベントで勝ち残る、残らないと関係なく頑張っていってほしい。話を聞くに、人生は長いし目先のイベントで勝ち残ることも重要だがそれ以外のことも少し視野にいれたほうがいいのではないかともちょっと思ったけれど、これもまた余計なお世話なのかもしれない。
ここまで書いていて、思い出した。またしても超直近だけど、『思想地図』vol.2でデビューした入江哲朗くんが代表のソシオグラフィ研究会主催で今日も東さんと福嶋さんの対談が行われるそうです@東大駒場。
くわしくはこちら→
http://d.hatena.ne.jp/sociographie/
追記
東さんがコンテンツの話をしていても不思議と内容が理解できるのななぜかということを考えていてふと思ったのだけど、僕の印象では東さんは「〜ということが起きているのは、〜というコンテンツで、これは大事だと思う」という語り方をしていた。それに対して、福嶋さん、黒瀬君はわりと「〜というコンテンツの〜という点が、〜という意味で大事だと思う」という語り方をしていたように記憶している。
東さんの語り方では、コンテンツに依存しているように見えてコンテンツが事例になっているため(≒コンテンツの取り替え可能)、実はさほどコンテンツに依存していないのに対して、福嶋さん、黒瀬くんの語り方はコンテンツに依存しきっている(≒コンテンツの取り替え不可能)。だから内容の是非は検証できないが、少なくとも東さんの語りたい意図は、僕にも理解できるということだと思う。些細なことかもしれないが、結構重要な方法論的問題ではなかろうか。
昨日のイベントの告知たち→
http://www.nhk-book.co.jp/books/nhk_books/shisou/info01.html
http://d.hatena.ne.jp/hazuma/20090410/1239332942