最近続けて、『エヴァンゲリヲン新劇場版:序』『ベクシル』『エクスマキナ』とアニメを観た。
普段はアニメをあまり見ないのだけど、近未来を描いた、比較的同時代に製作されていながら異なる世界観がなかなか面白かった。少し何が面白かったのかを書いてみよう。
『エヴァンゲリヲン新劇場版:序』は、90年代のエヴァンゲリヲンシリーズの2008年的再解釈、『ベクシル』『エクスマキナ』は『APPLESEED』つながり。
(『ベクシル』は『APPLESEED』の曽利文彦監督で、『エクスマキナ』はアクション映画で有名なジョン・ウーのプロデュースで、『APPLESEED』の続編。)
90年代、中学生で『エヴァ』を初めて観たときは、衝撃的だった。何に衝撃的だったかというと、ある種の時代の空気みたいなものをビビッドに反映していたからだ。それはある意味で、現実の延長線にこのようなシナリオが可能かもしれないと説得的に表現していた。90年代に『エヴァ』を見た人は、共感的であれ、批判的であれ、少なからず「90年代とはこういう時代だ」と思ったはずだ。だから、様々なココロの問題を抱える各登場人物に共感する人が多数表れた。思えば、「アダルトチルドレン」などという言葉が流行った時代でもあった。
だが、エヴァンゲリヲンは、共感できる物語であったが、希望を描く「ビジョンの物語」ではなかった。
おそらく、このような物語は、時代の文脈を高度に共有するユーザーにしか消費できない。さらに、『エヴァ』にはストーリーに収集がつかなくなったTVシリーズ後半があり、それを半ば強制的に完結させてきた過去の劇場版がある。
今回の『エヴァンゲリヲン新劇場版:序』では、プロットとしてはTVシリーズの半ばまでを追っていて、他は映像と登場人物の描写に変更がある。詳細は省くが、大きな変更点は過剰な内省の描写を削り、あからさまに克己の物語としても読めるようになっている点だ。
いい意味でも、悪い意味でも、アクションや映像、戦闘シーンは現代的なものになったが、90年代の現実の延長でもあった過剰な内省の物語は失われたように思える(少なくとも、続編が出ていない現時点ではそう見える)。その意味で、個人的には、ただ、「昔、こういうアニメがはやって、それにハマった自分がいた」ノスタルジックな映画だった。このアニメに、例えば、もっと下の当時を知らない世代はどうはまったのだろう。昭和三十年代ブーム的に? それとも、クールな90年代の再解釈として? イマイチ良く理解できない。
『ベクシル』『エクスマキナ』は、『エヴァ』とは対照的に、人、機械、バイオテクノジーの進化した未来とそれらの共生に関するある種のビジョンを描く。それは現実の延長というより、時代を先取りした物語だ。
『ベクシル』は、例えばAmazonのレビューでは評価が芳しくない。その理由は共感できる。過剰に大物を声優に起用している、物語がとっちらかっている、セリフが若干臭い。確かにその通りだ。だが、『エクスマキナ』とも共通するが、外見は人そっくりだが、人ではないもの、と、外見は人ではないが、確かに人であるものでは、どちらが人間的であり、どう共生するか、そして、人の固有性とは何か?といった問いを設定し、さらに(「正解」かどうかは不明だが)回答してしている点が極めて興味深い。やはり、詳細は省くが、キーワードは「経験によって獲得される固有性」だ。個人的には、この問題の共通点と分岐が、『ベクシル』と『エクスマキナ』のシナリオの相違にも思える。
もちろん、ビジョンが先か、現実が先か、という問題は議論が分かれるが、このビジョンを描き、それに答える、という設定は、ある種の伝統的なSFの役割のようにも思える。『エヴァ』にはそれがなかった。『ベクシル』と『エクスマキナ』にはそれがある。
あと、面白かった点をいくつか。『ベクシル』と『エクスマキナ』は共通して、swarmの暴走を描いている。それはweb炎上やクラウド・コンピューティング、集合知とも通じる極めて現代的な問題意識だ。
また、『エクスマキナ』はアクション映画で有名なジョン・ウーがプロデューズに入っている(原作は士郎正宗(!))。スローモーションを多用した格闘シーン、一発の弾丸、鳩、バイク等々、至る所に、ジョン・ウー節が炸裂する。実写でなくても、その存在感を出せるジョン・ウーはすごい。相当細部にこだわったことだろう。ストーリーと映像の完成度は間違いなく『エクスマキナ』が一番高い。
現実の延長か、ビジョンを描くか、を軸に、最近観た三本の映画の感想を簡単にまとめてみた。
「この差異が2000年代的なものと、1990年代的なものの差異だ!」とか言えるとちょっとかっこいいのだけど、残念ながら、それを断言する程には全然アニメやSFに詳しくない...