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先日、『ターミネーター サラ・コナークロニクルズ』セカンドシーズンを全て見終わった。映画のテレビドラマ化したものにはうんざりさせられることも少なくないけれど、新しいジョン・コナー、サラ・コナーの顔に慣れれば、なかなか観させるドラマだった。美少女最強ターミネーターに、ジョン・コナーの思春期の葛藤などが入り組んで、ただのアクション・ドラマにはなっていない。

...のだが、既に本国では続編が打ち切りになっているらしい。原因はセカンド・シーズン中盤以降、人間ドラマや心理的葛藤が全面に出過ぎたところにあるのではないか。やはり、一般にターミネーター・シリーズのドラマなので、アクション・シーンが期待されたということなのかもしれない。

なお、先日公開された『ターミネーター4』とは、直接は関係ない。クリスチャン・ベール版『ターミネーター』は3部作あるとの噂なので続編が楽しみ。どうでもいいけれど、ゲオの旧作100円均一は、とてもいい。観たかったふるい映画をまとめ借りしている。僕だけじゃないけど、いまどきこういうキャンペーンでもなければ、このコンテンツの豊富なご時世、昔の「名作」など、観ないのではないか。八月末までのキャンペーンなので、まとめて観ておきたいところ。


午前中都内で会議があって、午後から彼女と合流して『そんな彼なら捨てちゃえば?』観てきた。

数組の、状況の異なるカップルの入り組んだ関係の中から、(特に現代アメリカの)女の子の本音が垣間見える的な、ストーリーは普通に良くできたエンターテイメントなのだけれど、これがなかなかすごい。何がすごいって、映画館が女の子だらけ。女の子が友達数人で来てる、というのが一番多かったんじゃなかろうか。

で、女の子だらけだからかしらないけど、上映中も私語がすごいわけ。よく行く映画館だけれど、こんな人がしゃべって、携帯いじくってる映画はこれまでなかったよ。なんというか、女子校的な(?)違う文化圏に片足を突っ込んだ感じだった。



『リ・ジェネシス』のシーズン3を全部見終わった。

以前にも書いたことがあるけれど、派手さはないけど良質なサイエンスドラマである。特筆すべきは、サイエンスドラマでありながら、科学が話題になっているだけでなく、人間関係にまつわる感情のフックの設定がとても豊かであることだ。男女、親子、同僚、友人、恋愛、同性愛、さまざまな設定があるのだけれど、押し付けがましくなく視聴者に考えさせるつくりになっていて、さすがメディア・リテラシー先進国カナダのプログラムだと思った。過激なブッシュ批判言説なんかが、随所に織り込まれている点も目を引く。ところで、最近の日本の「サイエンスドラマ」といえば、もしかして『ガリレオ』とかになってしまうのだろうか...

しかし、『ターミネーター サラ・コナー・クロニクルズ』の次のシーズンも6月公開予定だし、チェックしてる海外ドラマが全て「待て」状態になってしまったw

公式サイトはこちら。
http://www.regenesis.tv/

前から観たいと思っていた『イーグル・アイ』をようやく観た。メインフレーム・コンピュータの暴走と生活のあらゆる情報が記録される監視社会というテーマを、現代風に比較的コンパクトかつ早い展開でまとめた秀逸なエンターテイメントだ。しかし、集合知やクラウド・コンピューティングの可能性が問われている現代において、メインフレームの暴走という主題は、どうにも時代遅れ感が漂う。スピルバーグの過去の『マイノリティ・リポート』のプリコグもメインフレームに近い概念だが、今作もほとんど同様のコンピュータ概念のままでアップデートされていない。

近い将来(というか今でも)、日常を取り巻く危機はネットワークに接続されあらゆるログが記録される時代は到来するだろう。けれども、それらの情報をどのように利用するかという目的の選択は決定的に人間に残されたままである。コンピュータの情報処理速度はさらに高速になり、記憶容量と収集されるデータは増大し、データマイニングのアルゴリズムもさらに高度になることは自明だが、その結果得られるものもまた「情報」であり、それをいかに利用するかという選択は人の手に残されたままである。

例えば、amazonのリコメンド機能は、過去の個人の購買履歴からおすすめを提示するがそれを買うか買わないかという選択の決定権は、依然として私たちに残されているという例が挙げられる。「選択」の背後には当然さらに購買行動を決定する情報を与える所与の前提が存在するが、論理的にはそれらにも存在の所与の前提があり結果として無限背進するがゆえに、こうした所与の前提に人間の決定がコントロールされているという言明は現下の時代状況ではあまり有意味ではない。

幸か不幸か、人間がメインフレーム・コンピュータに支配される『マトリックス』的状況は、コンピュータの進化を考えても近い将来訪れるとは到底思えない。おそらく「選択」の決定権は人間に委ねられ続け、直観的にそのことが人間性や人間の意味を考えるうえでも重要な意味を持っている気がする。効用関数のような論理的な前提のみならず、気分や状況に多分に左右される恣意的な人間的選択を近い将来コンピュータが行うようになるとは考えにくい。それゆえ昔からよくテーマにされてきたわけだが、既に使い古されておりオルタナティブが欲しい。

これらの理由により『イーグル・アイ』のメインフレーム・コンピュータによる支配という使い古された主題は、少なくとも個人的には想像力が全く刺激されなかった。このつまらなさは、時代状況に物語の設定が決定的に負けていることに起因するように思われる。そのことで本作の舞台となっている、かなり近い将来の状況設定の説得力が失われている。寡聞にしてあまり知らないが、流行りどころでいえばクラウド・コンピューティングや集合知のそのはるか延長線上にある社会や時代状況を設定とした物語を消費したい。全くの余談だけれど、メインフレーム支配の話題に関連していえば、個人的には『ターミネーター4』の公開とテレビシリーズの『ターミネーター:サラ・コナー クロニクルズ』セカンド・シーズンのDVD発売(共に2009年の6月らしい)を今から心待ちにしている。


最近続けて、『エヴァンゲリヲン新劇場版:序』『ベクシル』『エクスマキナ』とアニメを観た。

普段はアニメをあまり見ないのだけど、近未来を描いた、比較的同時代に製作されていながら異なる世界観がなかなか面白かった。少し何が面白かったのかを書いてみよう。

『エヴァンゲリヲン新劇場版:序』は、90年代のエヴァンゲリヲンシリーズの2008年的再解釈、『ベクシル』『エクスマキナ』は『APPLESEED』つながり。
(『ベクシル』は『APPLESEED』の曽利文彦監督で、『エクスマキナ』はアクション映画で有名なジョン・ウーのプロデュースで、『APPLESEED』の続編。)

90年代、中学生で『エヴァ』を初めて観たときは、衝撃的だった。何に衝撃的だったかというと、ある種の時代の空気みたいなものをビビッドに反映していたからだ。それはある意味で、現実の延長線にこのようなシナリオが可能かもしれないと説得的に表現していた。90年代に『エヴァ』を見た人は、共感的であれ、批判的であれ、少なからず「90年代とはこういう時代だ」と思ったはずだ。だから、様々なココロの問題を抱える各登場人物に共感する人が多数表れた。思えば、「アダルトチルドレン」などという言葉が流行った時代でもあった。

だが、エヴァンゲリヲンは、共感できる物語であったが、希望を描く「ビジョンの物語」ではなかった。

おそらく、このような物語は、時代の文脈を高度に共有するユーザーにしか消費できない。さらに、『エヴァ』にはストーリーに収集がつかなくなったTVシリーズ後半があり、それを半ば強制的に完結させてきた過去の劇場版がある。

今回の『エヴァンゲリヲン新劇場版:序』では、プロットとしてはTVシリーズの半ばまでを追っていて、他は映像と登場人物の描写に変更がある。詳細は省くが、大きな変更点は過剰な内省の描写を削り、あからさまに克己の物語としても読めるようになっている点だ。

いい意味でも、悪い意味でも、アクションや映像、戦闘シーンは現代的なものになったが、90年代の現実の延長でもあった過剰な内省の物語は失われたように思える(少なくとも、続編が出ていない現時点ではそう見える)。その意味で、個人的には、ただ、「昔、こういうアニメがはやって、それにハマった自分がいた」ノスタルジックな映画だった。このアニメに、例えば、もっと下の当時を知らない世代はどうはまったのだろう。昭和三十年代ブーム的に? それとも、クールな90年代の再解釈として? イマイチ良く理解できない。

『ベクシル』『エクスマキナ』は、『エヴァ』とは対照的に、人、機械、バイオテクノジーの進化した未来とそれらの共生に関するある種のビジョンを描く。それは現実の延長というより、時代を先取りした物語だ。

『ベクシル』は、例えばAmazonのレビューでは評価が芳しくない。その理由は共感できる。過剰に大物を声優に起用している、物語がとっちらかっている、セリフが若干臭い。確かにその通りだ。だが、『エクスマキナ』とも共通するが、外見は人そっくりだが、人ではないもの、と、外見は人ではないが、確かに人であるものでは、どちらが人間的であり、どう共生するか、そして、人の固有性とは何か?といった問いを設定し、さらに(「正解」かどうかは不明だが)回答してしている点が極めて興味深い。やはり、詳細は省くが、キーワードは「経験によって獲得される固有性」だ。個人的には、この問題の共通点と分岐が、『ベクシル』と『エクスマキナ』のシナリオの相違にも思える。

もちろん、ビジョンが先か、現実が先か、という問題は議論が分かれるが、このビジョンを描き、それに答える、という設定は、ある種の伝統的なSFの役割のようにも思える。『エヴァ』にはそれがなかった。『ベクシル』と『エクスマキナ』にはそれがある。

あと、面白かった点をいくつか。『ベクシル』と『エクスマキナ』は共通して、swarmの暴走を描いている。それはweb炎上やクラウド・コンピューティング、集合知とも通じる極めて現代的な問題意識だ。

また、『エクスマキナ』はアクション映画で有名なジョン・ウーがプロデューズに入っている(原作は士郎正宗(!))。スローモーションを多用した格闘シーン、一発の弾丸、鳩、バイク等々、至る所に、ジョン・ウー節が炸裂する。実写でなくても、その存在感を出せるジョン・ウーはすごい。相当細部にこだわったことだろう。ストーリーと映像の完成度は間違いなく『エクスマキナ』が一番高い。

現実の延長か、ビジョンを描くか、を軸に、最近観た三本の映画の感想を簡単にまとめてみた。

「この差異が2000年代的なものと、1990年代的なものの差異だ!」とか言えるとちょっとかっこいいのだけど、残念ながら、それを断言する程には全然アニメやSFに詳しくない...

先輩に誘われて、イメージフォーラム・フェスティバル2008(http://www.imageforum.co.jp/festival/)に『ザ・ネット』(http://www.imageforum.co.jp/festival/special.html)を観にいった。

ユナボマーの生い立ちと被害者関係者へのインタビューによって構成されたドイツ映画。絵は正直ひどいが、含んでる論点は特に2つの点で面白かった。1つは、ユナボマーの思考の「善悪」の問題。もう1つはヒッピーカルチャーとコンピューター・カルチャーの関係について。もう少し大きく捉えれば、社会の動きとコンピューターの世界のムーブメントの関係のこと。

前者に関して言えば、ユナボマーが状況証拠から見ると、おそらくは犯罪者なのだろう(ただ、映画は陰謀論も惹起させるが、そこはとりあえずカット)。ただ、革命家と犯罪者の違いは、映画の中でも言及されるが、紙一重。管理社会化からの革命を目指したユナボマーの手段は悪だと言えるが、思考のプロセスについては興味深い。ここら辺の話は、風の噂によれば、最近、いろんな人がやろうとしている模様。

後者に関して言えば、社会の変化のモチーフをそのままコンピューター史の発展に持ち込む議論は、少し躊躇する。コンピューター史を鑑みると、若干時間のズレや、その形態に違いがあるような気がします。この問題も、取り組んでいる方がいて、近日中に読めるようになるのではないでしょうか。楽しみにしています。

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