初等教育と中等教育についての最近のブログ記事

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家庭教師で、補助教材を使いながら小学生に英語を教えている。

その中でアルファベットや「This is a pen.」クラスの英文をCDの発音に続いて、彼らと一緒に発音しているのだが、侮るなかれこれが意外と僕にとっても勉強になっている。

市販の教材の付録CDは、簡単な文章だがネイティブ・スピードで発音する。もちろん文章は簡単すぎるのだけど、一緒になって発音しているとアクセントの置き方など細かいところに新しい発見がある。勉強するきっかけは意外なところに転がっているものだ(まあ、僕の英語運用能力の問題かもしれないが...)。物事を分かりやすく説明する力も8年程の塾や家庭教師での経験によって養われたと思う。

ところで、ニュースではゆとり教育の転換が話題になっているけれど、ちょろっとその補助教材を見せてもらった(写真は東京書籍の小学三年生向け算数の補助教材)。なんというか内容的には教科書と大差なく、この補助教材の存在意義は良く分からない。というか、付け焼き刃で作られた感がありありと出ている。

日本の小学校の教育課程には、内発性を促進する積極的プログラムが乏しいが、脱ゆとり教育は、授業時間数のちょっとした増加やおまけみたいな補助教材の導入ではなく、早急に内発的な学習を促進するプログラムへの転換を行う必要があるだろう。そもそも「ゆとり教育」でさえ本来の目的のひとつは、そうしたプログラムの導入だったのだから。

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「たんかん」という果物をいただいた。なんでも種子島の柑橘類らしい。蜜柑より二回り程小さく甘味が強く美味である。何かの柑橘類によく似た味がするのだが思い出せない。

中学2年から家庭教師をしている生徒の期末対策に微積分を教えているときに、2点間の距離を限りなく0に近づけることで求められる「直線」の傾きを少しずつでも大きくしていくことで、結果的にここまでこれるようになったんだということにふと気がついた。このように、「何か」を少しずつ変えていくのだが、あるときふと気がつくと実は大きく動いていることが分かるといった類いの仕事をしていきたい。年度末が近づいているにも関わらず、抱えているものがどれもなかなか収まりがつかないのだが、そんな中でも少しずつ「傾き」を大きくしていきたいと思った。


今日、神奈川県立高校の後期入試合格発表があった。今年唯一の受験生から、合格報告の電話をもらった。毎年のことだけれど、やはり毎年嬉しいものである。

神奈川の県立高校入試に関していえば、内申対策は先生に気に入られることと訴求力の高いことをコツコツ積み重ねていくしかないが、学力試験対策は学習すべき範囲も明確で基本的な問題しか出題されず(独自入試除く)、シンプルなことをやるだけで全く問題ない。しかしこの7,8年いろいろ見てきたけれど、大抵の塾や個別指導のカリキュラムは、中学生相手に無駄に長時間勉強させたり、たくさん問題を解かせるだけだったりと効率化されてなさすぎる。そのせいで勉強に嫌気がさして、「勉強する」ということから脱落していく中学生も少なくない。

どうにかしたいなあ。

追記

最近、テレビで見て知ったのだけど、個別指導の塾にもコーチングを導入し始めたところがあるらしい。例えばIE→

http://www.tact-net.jp/ie/upsystem/index.htm

塾や予備校産業で最も早くIT化とコーチングを強く押し進めたのは間違いなく、昔バイトしてた東進ハイスクールだろう。予備校はさておき、大抵の個別指導はコーチングとかやる前に、適当な指導履歴(それすらめんどくさいから、おざなりになりがち)だけを頼りに、毎週違う大学生が入れ替わり立ち代わり指導するとかいうシステムをなんとかしたほうがいい。実際は人件費や教室の運営規模の問題で塾や予備校は、システムの刷新が難しいのだけれど。その意味では、毎年毎年新しいシステムをばんばん導入していた東進は凄かった。もしかすると、長期的にみれば硬直化した業界だけに、東進のようにイノベーションを仕掛けていったほうが、競争が熾烈化しつつある教育業界の中で生き残っていこことができるのかもしれない。

明日は神奈川県下の公立高校の後期入試である。いわゆる学力重視型の入試方式。今頃ネットを見ている受験生はいないと思うけれども、頑張ってきてほしい。僕の生徒も1人明日の受験を控えている。明日の天気予報は曇り。重度の花粉症である彼も比較的実力を発揮しやすいだろう。

しかし、公立高校入試を見ていると、入試対策(そしておそらく多くの試験対策)に必要なことは、基礎的な知識の記憶とその応用方法への習熟の2点に過ぎないことが良く分かる。そうであるにも関わらず、塾も、教科書も「過剰」な教育プログラムを用意しすぎている気がしてならない。そもそも指導要領の範囲というのはそれほど広くないのだから、問題のバリエーションは限られているし、公立高校入試の問題のような到達度を測るテストに照準する場合、解いたことのある問題(例えば過去問5年分程度)を徹底的にやり込みベーシックな知識と解法を徹底的に修得することが有効である。従って、多くの既存の教育プログラムにありがちな個々の問題を中途半端にしたまま数多くの演習をこなす(実に多くの中学生がそうしている!)対策よりも、反復学習によって基本的な解き方を体得するほうがずっと効いてくるように思う。

いずれにせよ、今更細かい技術論はどうでもいいが、受験生には頑張ってきてほしいものである。

2/10(火)は神奈川県の私立高校の入試。今年の生徒の中には高校受験生は一人しかいないが、ぜひとも健闘してきてほしい。

7年ほど塾講師や家庭教師をやってきているが、毎年思うのは公立高校を受験するうえで必須の「絶対」評価はフェアではないということだ。到達度評価だけで構成されているならまだしも、認定評価の部分が多過ぎる。認定評価は各教師に依存した規準によって判定するため、いくらテストでよい点数をとっても成績がいつまでたっても上がらないということがしばしば起こる。そのことで定期テストという目標まで「頑張った」生徒の学習意欲を著しく損なうこともある。さらに、生徒の側に「公立上位校に進学するためには、教師に気に入られなければならない」という暗黙の了解が生じている。勉強も、部活も、ボランティアも、生徒会も頑張るといったある種超人的な目標を目指せというようなことである。そしてそのような了解がコードとなって、いわゆる「教師が好きなタイプの生徒」から外れた生徒のポジションを固定化する機能を果たすことがある。こうしたことを僕に言う生徒も少なくないが、こうした事態が真実かどうかはさして問題ではない。「一度教師から嫌われれば、いくらテストでいい点をとっても、いい成績を得ることはできない」というある種のステロタイプは、それが真実ではなくとも生徒の間に流布することで、予言の自己成就的にそうした事態を招きうる。

結局、現行のように教師個人に依存する評価規準では、教師も人間である以上、意識的にせよ、無意識的にせよ、気に入った生徒には甘く、そうでない生徒には厳しくなるのが当然である。これは教師が悪いということを意味しているわけではなく、教師に依存した制度の欠陥といえよう。

試験の点数だけが評価すべきポイントではないこと自体は間違いない。しかし、現行の評価方法は「頑張った」と思った生徒や教師の期待から外れた生徒の再チャレンジを評価し難いものにしているように見える。そのことは中学校での生活が、他の初等、中等教育の課程と比較して特にキツそうに見える原因の一つに思えてならない。

何度か書いている通り、随分長い間、塾講師などを通じて、初等中等教育過程にある子供たちに接している。

いくつも思うことはあるのだが、その中でもいつも思うのが、中学生のキツさだ。

小学生はまだ、学校を楽しんでいる子が多く、高校生はある程度思考が大人になり、手の抜き方を学んだり、進路の多様さなどもあり、それなりに楽しく暮らしている子も多い。だが、(特に公立)中学生だけが違う。「実質」、ほぼ全員が高校に進学し、そのために生活のすみずみまで「内申点」によって監視されている。

内申点が加算されることもあり(そして、教員が部活のコーチを兼ねていて、部活をやっていることが実質的にも、暗黙的にも優遇されるため)、部活に入ることも「実質」強制されている。学外のチームではダメだし、「実質」中学生の人間関係は、部活を軸に形成されることも多く、皆も知っているように部活に入ることは半強制なのが実態だ。

また、「実質」高校に進学することが当然なので、「実質」塾通いも必須だ。

さらに内申点が相対評価から絶対評価になったが、これは「実質」的に評価者が教員に集中したことを意味している。頑張って勉強して、テストの点数を改善したのに、提出物を提出しているのに、成績があがらない、と悩む中学生は多い。ある意味では、相対評価のほうがずっとフェアだ。

このように中学生活には、あまりに「実質」が多い。建前上は、別に部活に入ることも、良い内申点を取ることも、高校に進学することも、塾に通うことも義務ではない。だが、それは「実質」的に強制的なものになっている。こうした「実質」、すなわち半強制や「事実上」の項目の多さが、圧倒的に中学生活を息苦しいものにしているように思えてならない。

また、小学校から中学校の勉強スタイルの変化についていけない子も多い。考えてみれば、当然だ。小学校の勉強は、コツコツ勉強しなくてもいい点をとれることも多い。中学校の勉強では、主に基礎事項の確実な暗記と、それを組み合わせて運用する能力が問われる(逆に言えば。公立高校入試程度であれば、それだけで良い成績がとれる。ほとんどひらめきは必要ではない。主に、ひらめきが必要になるのは、高校の勉強だ。)。

つまり、基礎事項(例えば、英単語や数学の公式)の確実な暗記が、中学校の勉強には不可欠だ。しかし、この習慣を身につけられない子は大変に多い。当然だ。小学校では、テストの前日に教科書やノートを見直せば、それだけで、「優等生」になれたのだから。だが、これも一概に中学生のせいとはいえないと思う。

考えてみれば、一日5時間なり、6時間なりを授業で拘束され、その後に、きつい運動部でしごかれれば、こつこつ勉強をすることなど容易なことではない。僕は中学受験を経て、私立の中堅の進学校に進学したが、この変化についていけず、中学、高校を通して5年間、学業成績は学年で最下層だった。

もちろん、どの教育課程にも、そして、各個人によってキツさが異なるのは事実だ。これは、あくまで学校制度に注目した議論だ。

だが、昨今流行の教育改革では、大流行りの大学改革より、もっと中学校改革が検討されてしかるべきだと思う。

一昨日、(株)スペース・オブ・ファイブ(http://www.spaceof5.jp/index.html)の新しいラボ(スペース・デザイン・ラボ)のキックオフイベントで「「ヒト」の設計から教育環境の設計へ」と題して20分ほどしゃべってきました。

簡潔にまとめれば、特定の能力を持った個人を、詰め込み教育によって設計する時代は終了し、これからは、学習者のインタラクションを生かして、多様かつ偶有的なコミュニケーションに触れながら、主体的かつクリエイティブに学習していける環境や空間を設計することことが重要になる、という内容です。

これらの内容は、先日はできませんでしたが、背景にハイエクの自生的秩序論やルーマンの社会的システム理論を持っています。また、7年間塾講師や家庭教師、大手予備校スタッフとして、初等中等教育の現場に接している実感にも裏打ちされています。

ところで、スペース・オブ・ファイブ社は、「頭の良い子が育つ家」のライセンスビジネスを中心として、異なる市場のニーズの組み合わせ(これこそ、イノベーション="新結合"?)で非常に興味深いビジネスモデル群を展開している刺激的な会社です。先日のイベントにも、美大やSFCを含む複数の大学の大学生や社会人、アーティスト、そしてスペース・オブ・ファイブ社の社員の方が集まった楽しいイベントでした。こういう場を積極的に提供できるベンチャーは、短期的な利益のみならず、長期的な視野を持っていて素晴らしいと思います。

先日、ヘルプで早稲田の中高一貫校に通う中学一年生の数学のテスト対策を行ってきた。普段は、どちらかというと成績中位〜下位の子の勉強を見ることが多いのだが、久々に刺激になった。

これは全くの直観でしかないが、今の上位の子は、昔の上位の子よりもおそらく「できる」。自分も中学受験組だけども、当時と比べてもさらに中学受験が一般化して裾野が広がったことで、上位の子の学力はますます向上したのではないか。私見だが、何が上位の子と中位以下の子で顕著に違うかと言えば、試行錯誤の速度と集中力。特に試行錯誤の能力は、昔と比べても格段に改善しているように感じる。

最近のいわゆる学力中位〜下位の子達に顕著なのは、集中力がなく、ぼーっとしているか、じっと出来ないこと、また、試行錯誤しないことである。それに対して、先日見た子は、数学の問題で、解法Aがだめなら、解法Bで、それがダメなら、解法Cで、それでも解けなくて、こちらからヒントを与えてあげると、先の解法Bと組み合わせて解く、という作業を実に軽快に行う。こういうリアクションが帰ってくると、まるで反応のいい車のような感覚で、教える側も楽しくなってくる。

まだ、一年生の五月にも関わらず、代数が文字式の応用、幾何が図形の作図の応用をやっている。昔の中高一貫校よりもずっと早い進度な気がする。あと10年も経てば、きっと新しいエリートとなるのじゃないでしょうか。

他方で、問題は、こうした「学力」が決して学校教育の過程で醸成されたものではないことだ。おそらく(掛け持ちで通った)塾の指導によるものだ。公立学校、そして文科省がこの現状を認め現実的な対策を講じない限り、吹きこぼれ対策も公立離れも、そして経済格差と学力格差の相関も改善できないだろう。

ゆとり教育の見直し時期である。だからこそ、ゆとり教育の立役者である寺脇研の発言を再考してみたい。例えば、これは10年前に書かれた本。

下は昨年出版された本。びっくりするほどその議論の軸はぶれていない。脱偏差値一辺倒の価値観。自分のやりたいことを探すこと。吹きこぼれ対策。これは全く個人的な意見だけど、10年スパンで軸がぶれない人の意見は注目するに値すると思う。そして、もうゆとり教育とは呼ばれないけど、10年経って、当時寺脇さんが言っていたことが普通に認知され、実践されるようになってきているようにも思う。


学習曲線、経験曲線は非線形だというのは有名な話だ(例えばhttp://www.atmarkit.co.jp/aig/04biz/experiencecurve.html)。家庭教師をやっていても実感するときが多々ある。例えば、3年間継続してやっている子は、おそらく僕の説明の仕方を暗黙に理解しているので、初めたばかりの生徒に比べてずっと教えやすい。

その違いは質より量だと思う。一緒に勉強した時間や試行錯誤のプロセスが不可欠だ。結局重要な点は、説明の形式より、見えない暗黙知なのだろう。それを形式化できれば、ずっと教育の効率がよくなるように思うけど、でも古臭い言い方をすればそれが形式化できないからこそ、機械ではなく人が教える意味があるようにも思う。

ただ正確な知識が知りたければネットで検索すればいい。人は必ず間違う。それもかなりの確度で。それでも、もし人が人を教える価値があるとすれば、相互作用によって教える側の想定の範囲外に到達できる可能性がある。引き出す側と引き出される側の持ってるストックのかけ算で、時に想定していなかったパフォーマンスが生じることがある。人が教える価値というのはその一点に尽きるのではないか。

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