社会科学についての最近のブログ記事

シリーズ若者Vol.8 <若者と社会企業家> まとめ #wakamono

先日、立川市にある、若者の就労支援を行うNPOの先駆けでもあるNPO法人「育て上げ」ネットさんで同名のセミナーを行いました。

http://kokucheese.com/event/index/22968/

サブタイトルは「日本の社会企業家はどこからきたのか? 」。ぼくの主たる研究分野のひとつである、現代日本社会でしばしば社会貢献という文脈をこえて注目されることもある、新しい、革新性を持った社会起業家たちは、なぜ、どのようにして起業にいたったのか? というテーマを中心にお話させていただきました。メディアの方、大学の講師の方、大学生など、多様な方が本当に全国から立川にご参集くださいました。改めて厚く御礼申し上げます。これも理事長の工藤啓さんのネットワークあってのことと改めて驚嘆いたしました。

質疑応答&ディスカッションまでを、またまた@Zimmyisfakestarさんにまとめていただきました。ありがとうございました。

http://togetter.com/li/248633

メディアは必ず独自のコミュニケーションと形式、コードを持っている。そして、その形式とコードの背後には、なんらかの合理性が存在する(ということは、同時に非合理性も)。もし、内容的に同意できても、ある議論に違和感や既視感があるとすれば、内容ではなくその議論に使用しているメディアの耐久性に問題があるのかもしれない。実際、人文社会科学の理論的水準での到達点は、哲学も社会理論も形式は違えどかなり近い。

その観点から昨今の社会分析や社会批評を振り返ると、どうにも「善し悪し」や「是非」を判断するどうにも意味や価値観に基づく仕事が多いように感じる。本来、社会分析とは、「社会的事実をもののように見る」(デュルケム)ことではなかったか。

それに対するひとつのオルタナティブが『思想地図』vol.2(NHK出版)の「ソシオフィジクスは可能か」座談会の試みだったのかもしれない。「ソシオフィジクス」というのは、社会を意味するsocioと物理学を意味するphysicsを掛け合わせた造語だけれども、欧米ではphysics of societyやsocial physicsの伝統が今も生きていて著作も出版されている。こうした知的伝統は社会学の祖にあたる先のデュルケムやコント、ケトレーらに遡ることができる。そして、ネットワークやロングテールなどを介して主題レベルで人文・社会科学と自然科学が接近しつつある中で、改めてこうした議論が見直されているのが現状だ。

もちろんそうした「社会的事実をもののように見る」physics of societyや social physicsも独自のコミュニケーションや形式を持っており、それは価値観から脱することでを意味しない。「社会的事実をもののように見る」という態度は、「社会的事実をもののように見る」という価値観を帯びるし、批評性のなさは、「批評性のなさ」という批評性を必ず帯びる。社会学者ニクラス・ルーマンは、古典理論家の概念の使用とデータの陳述に終止し固有のコミュニケーションを確立できないという自身の社会学に対する問題意識から、オルタナティブとしてシステム理論の用語系という「新しい形式」の使用を試みた。ルーマンのシステム理論的記述が社会学に根付くには至らなかったが、このルーマンの試みは社会学のみならず注目に値する。

社会分析や批評に、閉塞感や既視感があるとすれば、内容ではなくそこで使用されている形式に問題があるのかもしれない。内容のみならず、その形式や方法を考えることに、もしかすると「ゼロ年代」の次があるのかもしれない。

先日、社会科学系の大きい学会で、研究会の研究成果の発表を発表すべく準備をしているさなか驚愕の事実が明らかになった。後輩の学部生はそもそも学会発表できないのだ。しかも、会則が混みいっていて、

1.会員には3種類ある。
2.正会員には、学士を必要とする。
3.学会発表には正会員の資格が必要。

となっている。ややこしい。

いずれにせよ結果的に学部生たちは発表できない。社会科学系の学会には、しばし、こうした意図不明な会則が存在する。「修士は会員になれない」云々。情報や自然科学系の学会にはこうした会則はほとんど存在しない。この落差はなんなのだろうか? 

もちろん、自然科学のほうが成果が客観的に分かりやすいという事情や、学部生の参加を認めれば、平均的には質が低下する可能性があること、事務処理が煩雑化するといった事態が予測されるというのは理解できる。

だが、こうした問題にも「学部生の報告には二名以上の正会員の推薦を必要とする」といったような対策がいろいろと考えることができるはずだ。学会が知的生産を生み出すための共同体だとして、これからの時代、こうした肩書きによる門前払いが学術的進歩を促すとは到底思えない。

経済学者の岩井克人先生が日経新聞のコラム「やさしい経済学」で連載を担当している。少し前だが、連載の三回目「人から人への伝承」の回で興味深いことをおっしゃっていたので、メモ。

曰く、現在人間は、遺伝子レベルで言語を操る能力を持っている。そのような時代には、社会科学はその存在意義が問われる。例えば、脳科学、生物学があれば社会科学は必要ないのではないか?という疑問だ。だが、岩井先生は社会科学の存在意義はある、と言い切る。なぜなら、法も貨幣も言語も脳と脳の間の「社会」に存在するからだ、と。

非常に共感する。そして、社会科学は、人文学とその役割の違いを意識し、社会を分析する科学に特化していく必要がある。有史以来の人類の価値判断の蓄積と体系は人文学に、社会を分析する学は社会科学というように。日本の場合、経済学を除いて、社会科学と人文学が依然としてあまりに未分化だと思う。このことが日本の社会科学の専門性の低さの一因となっていないだろうか?

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