「ジョン・ロックと日米摩擦」

1994年4月3日

 日米摩擦は落ち着く兆しを見せない。繊維から始まった日米間の経済摩擦は、対象と形態を変えながら続いている。その原因には、確かに何かがあるのだろう。いたずらにアメリカが日本をいじめているようには思えない。むしろ、アメリカは自分が被害者であることを主張している。日本人の目から見れば、世界の盟主であるアメリカがなぜそれほど騒ぐのか分からないという思いがある。日本は世界第二位の経済大国になったという。しかし、欧米諸国との比較でいえば、日本はまだバランスのとれた国とはいえない。リチャード・ローズクランスの言うような「貿易国家」が、従来の安全保障重視の「領土国家」にとって代わるものなのかはまだ分からない★1。近代以来の領土国家の遺産を抱える欧米諸国から見れば、日本はやはりアンバランスな国であり、そのアンバランスさがアメリカをはじめとるする国々との「摩擦」につながっているのだろう。

 しかし、摩擦の原因をそのように受け止めるにしても、なぜそれに対し有効な施策を打ち出せないのであろうか。そこには根本的な考え方の違いがあるように思われる。実際に近年の日米摩擦では「文化摩擦」といえる側面が見られるようになってきた。例えば、日本の市場開放が進まないことに関してアメリカが日本の商取引慣行を問題にしていることが挙げられる。また、リビジョニストというレッテルを貼られた論客の意見が物議をかもした。

 本論文では、日米の考え方の違いをジョン・ロックの思想を鍵として解いてみたいと思う。ロックは一般には、近代国家成立のための社会契約説における革命権を定式化したことで知られている。そして、それはアメリカの独立宣言に強い影響を与えた。いわば、アメリカという国、そしてアメリカ人の考え方の基礎となった考え方である。その思想が現代にも生きていて、外交姿勢に表れているとしても不思議なことではない。日本人の考え方とは異なる考え方が、ロックの思想の重要なポイントとなっているのである。

 ここで、一般にいわれるアメリカの独立宣言の要点を整理してみよう★2。第一点は、「人はすべて、創造主によって、平等に創られ、それぞれ譲るべからざる権利を持っていること」である。これは、君主といえども国民の同意なくしては君主足りえないことを主張したものである。つまり、人間は神の下に平等であり、何人も彼の生命を理由なく奪うことは出来ないといっているのである。

 第二点は、「政府は、この権利を保障するために、被治者の同意によって設けられたものである」ということである。自然状態において人間は自己保全を第一義として生きており、そのためには相争わざるを得ない。しかし、争う以上自己の生命の保障はない。従って、人間は合意によって政府を創るのである。

 そして、第三に、「政府を変更廃止することは、人民の権利であること」である。政府がじんっみんの合意によって創られた以上、その合意に背く政府であればこれを亡きものにできるのである。

 これらはいずれもロックの考え方が原形となっている。しかし、この思想だけでは、日米摩擦との関連を見出す考え方を明確に表していない。それは自然状態における自己保全と所有権についてのより深い考察を必要とする。

 まず第一に、社会契約が結ばれる以前の自然状態といわれる状態に注目する。自然状態とは「完全に自由」な状態であり、また「平等な」状態でもある。自由な状態とは「自然法の範囲内で、自らの適当と信ずるところにしたがって、自分の行動を規律し、その財産と一身とを処置することができ、他人の許可も、他人の意志に依存することもいらない」★3ということである。そして、「そこでは、一切の権力と権限とは相互的であり、何人も他人より以上のものはもたない」★4という点で平等なのである。しかし、それは「放縦の状態」ではない。自然状態における人間を律するものとして自然法がある。自然法は「万人が他人の権利を侵害したり、お互いに傷つけ合ったりすることを抑止」★5し、「平和と全人類の存続とを目的とする」★6ものである。

 自然状態における個々の人間の至上命題は自己保全である。もし他人が自分に対して生命をねらうことを宣言するならば、両者は「戦争状態」に置かれることになる。この場合「ひとが自分に対して戦いをなしあるいは自分のぞんざいに対して敵意を示した者を破壊してもいいのは、彼が狼や獅子を殺してもいいのと同じ理由による」★7とロックは述べている。なぜなら「私の同意なしに私を権力下に置こうと欲するものは、もし私を手に入れるならば、その欲するままに私を殺すであろう」★8からである。

 この考え方は、泥棒を殺すことをも合法化してしまう。つまり、「彼がただ私の馬または上着だけを盗もうとしてでも私を襲撃した場合には殺してもいい。何故なら、私の生存維持のために作られた法は、もし一度失われればもはや償うことのできない私の生命を当面の暴力から保護するためにそれが役に立たないときには、私の自衛を認めるし、また戦争の権利は、侵害者を殺す自由を許すのである」★9。

 この戦争状態の人間の姿は、経済戦争さなかの日米関係になぞらえることができるのではないか。日本がアメリカを殺す意図はないにしてもアメリカのものを奪う、あるいは、アメリカを日本の権力下に置こうとする。それに対し、アメリカが自己保存のために日本を殺そうとしていると考えられるのである。

 日本はアメリカを殺そうなどとは夢にも思っていないし、何かを奪い取ろうとしているのでもない。しかし、日本の経済大国化はアメリカに脅威の念を抱かせた。アメリカは、日本の不公正な貿易によってアメリカの利益を奪い取っていると主張しているのである。自らを守るためには、日本を叩くしかない。これがアメリカの自己中心的な通商姿勢につながっているのではないか。

 ロックは、自然状態においては自然法の執行は各人の手に託されているとしている。自然法に従って日本を叩くかどうかは、全ての人間が平等である限り上位の者を認めることはないので、裁判官といったような誰かの校正で客観的な判断を待つのではなく、自分自身の判断に任されているのである。これはアメリカが一方的に自国の損害を認め、それを償うための制裁を独自の判断で、自国の通商法に基づいて行おうとしてるのに似ている。

 第二に注目すべき点は、ロックの所有嫌の概念である。ロックによれば、所有権は単にあるものを保持することに与えられるものではない。まず各人は自分自身については所有権を持っている。誰も彼を拘束する権利を持っていない。そして、「彼の身体の労働、彼の手の働きは、正しく彼のものであるといってよい」★10。彼が自然に与えられたものに労働を加え、「かれ自身のものである何物かを附加えた」★11ことにより、それは彼の所有となるのである。「他の人々の共有の権利を排斥するなにものかがそれに付加されたのである」★12。

 しかし、自然法はまたこの所有権をも拘束する。例えば、自然状態にある果物などを労働によってたくさん集めたならば、それを独占できるかというとそうではない。所有は享受できる範囲でなければならないのである。それを腐らせずに役立たせられる限りのものが所有権の対象となるのである。逆にいうと、なんの役にも発たないのに所有を宣言することはできないのである。役に立てれられなかったならば、「彼は自分の分前以上をとり、他人のものを奪ったことになる。そうして自分の使用し得る以上に蓄積することは、不正直であるばかりでなく、実にまた馬鹿なことでも」★13あるとロックは述べている。

 現在日米間で問題となっているのは、日本の大幅な貿易黒字である。これがロックのいうとおり労働によって得られたものならばそれでよい。日本の貿易黒字は公正な労働によって得られたものだろうか。ため込んだ黒字を日本は役立てているのだろうか。そうではないと本能的に、あるいは感情的にアメリカは見ているのではないだろうか。

 日本は自分たちが貯めた黒字にやましいところを感じていない。むしろ、誇りにさえ思っている。国民性なのか、敗戦の教訓からか、黒字を貯めて何かをしようと考えているのでもなく、むしろ貯金のように考えている。その貯金を使わないからといって責められるのはおかしなことだと思っている。

 ここに思想の大きな相違が表れている。まず、黒字を貯めるための方法は公正なものでなくてはならないとアメリカは考えている。しかし、その公正な方法はアメリカ人にとっては公正な方法であっても、日本人にとってはそうではないかもしれない。レスター・サローは「フット・ボール」という言葉が意味する違いを指摘している★14。フット・ボールは、日本ではサッカーのことであるが、アメリカではアメリカン・フットボールなのである。ルールやゲームが違うならば公正もなにもない。日本とアメリカの社会システムは似て非なるものなのである。

 日本は黒字を貯めることに特定の目的をもっていない、あるいは貯めること自体が目的となっているのに、アメリカはなぜ日本が黒字を貯めようとしているのかを必死で探ろうとしている。そして、日本はきっとなにか国際貢献をしようとしているに違いない、あるいはしなくてはならないと考える。しかし、アメリカが納得できる答えを見つけることはできず、日本には顔がないという結論を出してしまう。それを受けて日本は、何かやらなくてはいけないらしいから、やってみようということになる。アメリカ人の考え方の底流にあると思われる所有権の概念は自己の必要と密接に結びついているのに対し、日本人はそのように考えていないのである。それが日本の黒字に対する攻撃となっているのである。

 以上のようにロックの自然状態における自己保全と所有権の二つの側面から日米の考え方の相違を指摘してきた。しかし、ロックの社会契約は、個々の人間と国家との契約であり、当時の国家の正統性を立証するためのものであった。従って、個々での指摘では、二つのことに注意しなくてはならない。まず第一に、この議論では個人を国家になぞらえて議論を進めたが、個人と国家を同様に扱ってよいかどうかは大きな問題である。第二に、国家を個人にみたてることができるとして、正統性を立証すべき国家にとっての国家である世界統一国家、少なくとも日米二国家を治める超国家はこの世に存在しないことである。よってロックが市民政府の正統性とその成立原理を述べた状況と現在の状況とは、はなはだ異なるのである。

 しかしそうだとしても、現在の国際社会をロックのいう自然法に支配された自然状態になぞらえて考えることは有益であろう。なぜならば、自国の利害損得を測り、それにどう対処するかはそれぞれの国家の判断に任されていて、自国の安全保障が国家の最大関心事項であるという点で自然状態に近いからである。そして、それぞれの国家は全国家の合意の下に「国際社会契約」を行って、より確実な自己保全を図るための超国家、超政府を成立させる可能性を夢見ることができる。その試みは、歴史上国際連盟、国際連合という形でなされてきた。しかし、その試みが満足な結果に終わっていないことは自明である。その理由は、ロックの議論に従えば、国際連盟はすべての成員の合意を得られなかったことである。一番有力だったアメリカの批准を得られなかったのである。また国際連合は、平等な諸国の合意の上に作られていないからである。つまり一部の国家に決定権が握られ、戦争のための連合という体質から抜け切れていないのである。また、GATTにしても公平な立場に立っているとはいえず、諸国が寄り集まっているだけである。ルール作りのための立法機能と、ルール違反を裁く司法機能が分離されていないため、ただ言い合うだけになることが多い。

 国際社会が自然状態にあるということは、いわば矛盾であり、そこには国際「社会」など存在しないということである。こそにはただ自然法のみが存在し、その中で国家は自己の存在をかけて戦っていることになる。よって、日米が貿易戦争を繰り広げるのも至極当然ではないか。

 従って、自然状態のままの世界にあって、日本は貿易戦争や摩擦などを甘んじて受け入れ、戦いに勝つためにじこの武装を固めるか、それらを回避するために諸国家の合意を取り付けるという壮大な事業に取り組むかの決断をしなくてはならない。それが平和憲法を有する日本の二十一世紀最大の課題ではないだろうか。

★1 リチャード・ローズクランス『新貿易国家論』(中央公論社、1987年)。
★2 ロック『市民政府論』(岩波文庫、1968年)の解説。
★3 ロック『市民政府論』(岩波文庫、1968年)。
★4 前掲書。
★5 前掲書。
★6 前掲書。
★7 前掲書。
★8 前掲書。
★9 前掲書。
★10 前掲書。
★11 前掲書。
★12 前掲書。
★13 前掲書。
★14 レスター・サロー『大接戦』(講談社、1992年)。