「日米半導体摩擦の分析−数値目標とその影響−」

土屋大洋

『法学政治学論究』第25号(1995年夏季号)

本文テキストのみ

一 はじめに

 一九九四年一二月、通産省は日米半導体摩擦の終息を宣言した(1)。日米半導体協定の焦点は、一九九二年末までに、日本市場において外国系半導体のシェアが二〇%になるかどうかであった。一九九三年春、それが達成されたことが確認され、一九九四年第3四半期のシェアは過去最高の二三・二%を達成した。それを受けて通産省は終息宣言を出したのであった(図1)。

 半導体摩擦において、米国が日本に求めたことは、大きく二つに分けられる。第一に、日本メーカーによる外国市場でダンピングをやめさせること、第二に、日本市場での外国系、つまり米国製の半導体の売り上げを伸ばすことであった。日米摩擦において一貫する米国の論理は、米国の貿易赤字の原因は日米間の貿易不均衡であり、日米間の貿易不均衡の原因は日本の市場参入障壁であるというものだった(2)。

 そしてまた、米国にとって、半導体での競争力を失うことは、安全保障上の脅威であった。ミサイルなどのハイテク兵器の製造に日本の半導体製品を使うということは、いざというときの供給確保という点で問題があるというのである(3)。

 日米摩擦に関する研究は非常に多いが、半導体摩擦に関する研究は、交渉当事者によるものと政治・経済学者によるものとに大別される。C・V・プレストウィッツJr.は、米国の商務省の一員として半導体交渉に携わったが、その著書の中で一九八六年の日米半導体協定に付属文書があったことを明かし、後の議論の発端となった(4)。またグレン・S・フクシマも、米国通商代表部(USTR)の一員として交渉に携わり、USTR退任後も日米関係に関して多くの論評を発表している(5)。それに対する日本側の交渉担当者としては、通産省の審議官だった黒田眞が積極的に意見を述べている(6)。

 半導体摩擦を政治学あるいは経済学からの見地から分析する試みもいくつかある(7)。その中で最も注目を集めたのは、クリントン政権の大統領経済諮問委員会(CEA)委員長その後国家経済会議(NEC)担当大統領補佐官となったローラ・タイソンのWho's Bashing Whom?であろう。彼女の著作はクリントン政権の対日通商政策を正当化するものとして日米双方で論議の的となった。その主張の骨子は、ハイテク産業は国民経済全般にとって重要だが、日本が不公正なやり方で伸びてきたことにより、米国に被害が生じている。よって、米国を防御しなくてはならない、というものである。タイソンは、自分自身を「慎重な行動主義者」と規定し、条件次第では管理貿易的な強硬策を採ることも必要であると考えている(8)。

 しかしこれらの研究はいずれも半導体摩擦が継続している間に行われたものであり、半導体摩擦の影響や効果に関する評価は分かれている。例えば、フクシマは半導体協定は米国の半導体産業を救うために不可欠であったとし、半導体協定は結果的に成功であったと評価しているのに対し、タイソンは、半導体協定は管理貿易であることを認め、二〇%という数値目標が恣意的であることから自主的輸入拡大(VIE)は次善の策に過ぎないとし、半導体協定は失敗であると考えている(9)。

 また、スティーブン・D・コーエンは、一九九一年の時点で半導体協定に関し四点の結論を述べている。第一に、「米国の半導体業界は、かつて維持していた競争力を取り戻すことができなかった」、第二に、「日本のメモリーチップメーカーがダンピング批判をかわして、最大の利益を得るためにとった行動は米国の利益を損なってきた」、第三に、「この協定は、一九九一年までに日本市場にしめる米国製品のシェアを二〇パーセントに増大させるという目標を達成できないだろう」、第四に、「米国メーカーはDRAMの生産に再進出をはかることができなかった」というのである(10)。しかし、このうち第一と第三の点については現在から見れば妥当とはいえない。特に第三点に関しては、達成されている。

 よって、本論文では、第一に、摩擦が日本の半導体市場に与えた構造変化の大きさと時期を統計資料を元に分析し、第二に、混乱する日米半導体摩擦の評価を当事者たちの認知を通して明らかにし、実際にはどのような変化が日米半導体摩擦によって引き起こされたのかを分析してみたいと思う。以下、第二節では、本論文の分析枠組みについて述べ、第三節でROLS(逐次最小二乗法)と認知構造図を使った分析の結果を示し、第四節で結論を述べる。

二 分析方法

 日米半導体協定は、どのくらい日本の半導体市場に影響を与えることができたのであろうか(11)。それを分析するには、逐次最小二乗法(ROLS: Recursive Ordinary Least Squares)が有用である。逐次最小二乗法(以下、ROLSと略)は、回帰分析の最小二乗法を基にしている(12)。しかし、普通の回帰分析では、与えられたサンプル・データが、全て合わさって「一つの構造」を持っていると仮定しているのに対し、ROLSは、時系列に並んだデータのセットの中に「構造変化」の情報が含まれていると仮定する。そして、データを逐次的に、一つ一つ順番に、回帰方程式の中にいれていき、その度に方程式の係数を計算する。

 次々とデータをいれていく過程で、一つ前までのデータの情報に基づいて作られた方程式と、次のデータとの間に誤差が生じるはずである。この誤差を予測誤差という(図2)。つまり、(t-1)回目で作った方程式で(t)回目の値を予測した場合の誤差が、予測誤差である。

 次に、(t)回目のデータを取り込んで作った(t)回目の方程式で、(t)回目の値を推定した場合の推定値と実際のデータとの誤差が、推定誤差である(図2)。逐次的に計算していくプロセスで急に推定誤差が大きくなるならば、そこに構造変化が起きていると考えることができる。なぜなら、もし構造が安定していれば、次々とデータをいれても誤差は大きくならず、方程式は安定してくるはずだからである。このROLSは、あらかじめ因果関係が分かっていれば、構造変化の分析に非常に有用である。

 しかし、ROLSはどれくらいの変化がいつ起きたかを推定することはできても、その変化がどのようなものであるか、言い換えるならば、日米半導体協定は何を残したか、ということを説明する情報には乏しい。そこで、実際に市場では何が起こったのかを、日米それぞれの半導体産業の業界団体の声明を使って分析することにした。

 わざわざ業界団体の人物の発言を通じて半導体協定の影響を分析するのには理由がある。摩擦は最初から政治的なものではない。問題を政治化しようとする人間がいて初めて政治的な摩擦となる。しかし、いったん政治化された摩擦はしばしば当事者たちの意図を離れて推移することになる。そして、その評価をわれわれはしばしば当初の当事者の視点とは異なる文脈で論じがちである。しかし、半導体摩擦の影響は、問題提起をした人間の目を通して判断されるべきであろう。当事者たちが何を問題とし、それが摩擦として政治の手にゆだねられた結果、どのような影響を引き起こしたと考えているかを明らかにする必要がある。そのために有用なのが一種の内容分析である認知構造図である。

 認知構造図は、政策決定者の思考プロセスを分析するための手法として開発された(12)。その基礎になるのは、政策決定者が政策について述べた声明、論文、インタビューなどの資料の中に見いだされる因果関係である。声明、論文、インタビューなどの資料の中には、何かが原因となって、何かが引き起こされた、あるいは、何かが何かにこういう影響を与えた、というような語句、文、文章のセットがある。

 そこで、原因となっている物事を原因コンセプトとし、影響を与えられた物事を結果コンセプトとする。そして、その間には、量的あるいは質的に正の関係、あるいは負の関係がある(このようにコンセプトを発見し、その関係を抜き出すプロセスをコーディングという)。正の関係とは、原因コンセプトが増加すると、結果コンセプトも増加するというような、同じ方向の変化を引き起こす関係である。負の関係とは、増加が現象を引き起こすというような逆の変化を引き起こす関係である。

 このようにして抜き出されたコンセプトを正と負の関係を添えた矢印でつなぎ合わせることによって、政策決定者の認知の構造を図式的に表すことができる。この認知構造図の利点は、第一に、もしその政策決定者の認知構造が分析時と変化していなければ、同じような状況において政策決定者がどのような政策をとるかの予測をすることができる点にある(13)。そして、第二に、複数の政策決定者の認知構造図を比較検討することによって、政策に対する利害や見解の相違を明らかにすることができることである。

 ただし問題もある。それは、ある個人の考えが所属する組織や国家をどれだけ代表しているかということである。また、本音と建て前とを使い分けていると正確な予測ができないことにもなる。これらの問題の回避は分析対象とする資料の選択にかかっている。

 本論文では、第二の利点に基づき、時間的な間隔をおいた認知構造図を比較することによって、政策決定者の思考法がどのように変化したかを分析する。つまり、現実に何かの構造変化があるとき、当事者はそれに気づいていると仮定し、時間的間隔のあいた認知構造図の中からその変化を発見しようというのである。そこには当事者が摩擦をどのように評価したかが現れているはずである。

 日米半導体摩擦は、その発生を一九八〇年代のはじめ頃とすれば、約一〇年にわたる摩擦である。その中で大きな山場を見いだすとすれば、第一に、一九八五年の米国半導体工業会(以下SIA)による日本企業の提訴と、それに伴う第一次日米半導体協定である(14)。第二に、一九八七年に協定が守られていないとして米国が三〇一条に基づく制裁を発動したときである。そして、第三には、一九九二年末までに日本市場での外国系半導体シェアが二〇%を達成したかどうかの結果が出る一九九三年春であった。そのいずれの時期にもSIAは『日本経済新聞』紙上にその立場を説明する記事を載せている。そして、一九八五年と一九八七年には日本側の業界団体であるEIAJ(日本電子機械工業会、以下EIAJと略)の代表者が反論を同じ『日本経済新聞』紙上に載せている。本論文では、一九八五年のSIAの主張と、それに対するEIAJによる反論、そして、一九九三年のEIAJの主張とSIAの主張とを資料にして、認知構造図の分析を行うことにする。

 本来、認知構造図の分析は政策決定者に対して行われるが、本論文ではそれにとらわれず、重要な当事者である業界団体の首脳を分析対象とする。

三 分析

(一) 日米半導体摩擦における日本の半導体市場の構造変化

 まずROLS分析のために、ここでは、ごく一般的に集積回路に関する生産、輸出、輸入の金額データを使うことにする。ROLSによる分析を行うには、まず何が原因(独立変数)で何が結果(従属変数)であるかをあらかじめ先験的に設定しておかなくてはならない。

 ここで日米半導体摩擦の論点を整理すると、第一に、日本メーカーによる海外、特に米国市場でのダンピングを抑制することであった。第二には、日本市場での外国系半導体シェアを引き上げること、つまり市場開放であった。第一の点に関していえば、日本からの大量輸出が外国市場に出回っていることになる。これは輸出するために生産していることになる。しかし、よく考えてみると、たくさん輸出して消費する市場があるからこそ、たくさん生産するということであろう。よって、それを整理すれば、一期前の輸出量が次の期の生産量に影響を与えるということであろう。これをより現実的にするため、使用するデータは四半期ごとの合計にした。実際、日本市場でのシェアの測定にも四半期ごとのデータが使われている。つまり、

生産量(t)=i傾きパラメータ)×輸出量(t\1)+(切片パラメータ)  c(式1)

である。

 次に第二の論点である、日本市場の開放については、これに関する因果関係の方向は、輸入が増えることによって、国産品の国内消費のための需要が小さくなり、国内消費向けの生産が抑制され、ひいては生産全体の規模も縮小するということになる。ここでも情報のラグはあると認められるので、

生産量(t)=i傾きパラメータ)×輸入量(t\1)+(切片パラメータ)  c(式2)

となる。

 以上の二点をまとめると、輸出の増加は生産を増加させる方向に働くが、輸入の増加は生産を縮小させる方向に働くということになる。半導体交渉において米国側が求めたのは、輸出の削減と輸入の増加であった。ということは、第一の論点、第二の論点ともに、日本の生産量を削減することにねらいがあったことになる。これは事実と矛盾しない。

 ROLSによる分析にはいる前に、分析に使われたデータがどのようなものであるか概観することは有益であろう。それは図3と表1に示されている。

 図3を見て分かることがいくつかある。まず輸出と生産は一九九〇年頃まで似たような動きをしているが、それ以後はあまり対応していないということである。また、生産と輸入には、一九八〇年代の前半はわずかな対応が見られるが、輸入は一貫して低調であり、輸出との間に大きな差がある。

 これをROLS分析した結果が、図4、図5、図6である。図4に示されているのは、式1によって求められた傾きパラメータの推移である。この傾きパラメータは横軸に水平であればあるほど、安定していることになる。図4の傾きパラメータは、最初に大きく揺らいで、後は緩やかに動いている。ということは、早い内に大きな構造変化が起きて、その後は緩やかな変化が続いているということになる。図4は輸出に関する方程式の傾きパラメータであるから、日本企業による海外でのダンピングに関係している。これは、ダンピングについては、市場開放と比べて、早い内に問題が解消されたという事実と一致する。

 図5に示されているのは、式2によって求められた傾きパラメータの推移である。式2を作るにあたって仮定したのは、輸入が増えると、生産がその分減少するであろうということであった。しかし、図5の傾きパラメータは正の値を取っており、生産を減少させてはいない。しかし、図4の傾きパラメータと比べて、この図5の傾きパラメータの縦軸の変化の幅は、かなり大きくなっている。そしてその値がゼロに近づいてきているということは、輸入が伸びても、生産は伸びていないことを示している。輸入は、生産を引っ張るまではいかないが、ブレーキになっているようである。

 図6に示されているのは、式1と式2から得られた推定誤差分散の推移である。これは値が大きくなるほど、推定した値と測定した値との間の誤差が大きくなっていることを示している。逐次的に計算していくプロセスで誤差が大きくなるということは、構造変化が起きていることを示している。逆に誤差が小さくなるところは構造が安定してきているところといえる。

 図6が示すのは、構造がほぼ恒常的に変化し続けているということである。しかし、この図6をよく見ると七つの不連続な点が見られる。つまり、八五年第1四半期、八五年第4四半期、八六年第3四半期、八七年第2四半期、八八年第3四半期、八九年第2四半期、九一年第4四半期である。これらの間に起きた出来事を、実際のイベント・データと照らして合わせてみると、非常にうまく日米半導体摩擦の展開を整理できることがわかる。つまり、表2に示されているとおり、@形成期、A表面化期、B交渉期、C深刻化期、D統合期、E調整期、F安定期、G緊密化期、である。

 @形成期には、現在から見れば、摩擦の前兆ととれることが米国で様々起きている。八三年二月には米議会下院歳入委員会貿易小委員会で半導体問題に関する公聴会が開かれた。八三年にはいるとSIAは対日提訴を検討するが延期する。実はこのころ、二つの半導体に関する取り決めが日米間で交わされていた。半導体問題を含むハイテクが日米間で深刻な事態になることを憂慮して安倍晋太郎通産相(当時)が提案したHTWG(High Technology Working Group: 先端技術作業部会)において、日米両政府に対する提案という形で、特に日本の半導体のダンピングについて監視することを決めていた。しかしこの二つの取り決めは米国の期待に添う結果にはならなかった。また、八四年には通商法三〇一条が改正されている。この間、米国メーカーの不満が高まってきていた。

 A表面化期になると、八四年から始まった米国での半導体不況が日本にもおよんでくる。米国半導体業界では失業が増加し、AMD社、モトローラ社、モステク社といった大手のメーカーが、当時先端であったDRAMの生産から撤退する。八五年の三月には日米が半導体関税を同時撤廃するが、すでに日米関係は全般にわたって、険悪なムードに包まれており、米議会は対日報復決議を行う(一九八五年三月二八日)。

 そして、八五年六月には、一連の半導体関連提訴の先陣を切って、SIAが日本の半導体業界を通商法三〇一条違反の疑いでUSTRに提訴する。時を同じくしてマイクロン・テクノロジー社が日本の七大半導体メーカーを反ダンピング容疑で提訴する。九月になると、米司法省がダンピングの疑いで日立を調査し、インテル社、AMD社、ナショナル・セミコンダクター社が、EPROMの売値について日本の半導体業者八社を提訴する。また、レーガン大統領は、三〇一条に基づき、ブラジル、韓国、日本を自主調査するなど、異例の措置に出る。この八五年の一年間に問題が一気に吹き出た感があった。

 八五年八月から断続的に行われてきた半導体交渉は、B交渉期に入ると、五月から双方のぎりぎりの交渉が続けられ、決裂寸前までいったが、六月にようやく合意に達し、九月に日米半導体協定が発効する。この交渉が続いている間に、図6の推定誤差分散の推移は大きく変化している。

 C深刻化期では、いったんは合意した日米であったが、その成果に関して米国が不満を感じ、大統領は、八七年四月、半導体問題で対日一〇〇%の関税報復措置を発表する。しかし、注目されるべき点は、半導体に関する報復であるにも関わらず、半導体そのものには関税はかけられなかったことである。そのかわり、パソコン、カラーテレビ、電動工具に関税がかけられた。この背景には、米国内の半導体「ユーザー」から、日本の半導体製品に関税がかかって値上がりすることへの反対の声が強かったということがある(15)。すでに日米の半導体産業は統合され始めていたといえる。

 次いでD統合期になると、政治的に日米の間に和解ムードが広がり、事実上統合の段階に入った業界を調整するための具体的な行動がなされた。まず八七年一一月に報復措置が解除される。日本では、外国系半導体ユーザー協議会(UCOM)が設立され、外国系半導体の積極的な輸入への努力が始まる。八八年九月には、EIAJが外国系半導体の日本市場アクセスに関するアクション・プランを発表している。

 その後、一時期また日米関係が悪化する。E調整期において、USTRがスーパー三〇一条対日適用を決めたからである。しかしその後すぐにF安定期に入る。八九年の第3四半期以降約二年半の間、誤差の分散は、ほぼ安定した推移を見せる。特に輸出\生産構造は安定している。この間、日米半導体新協定が結ばれるが、これは、前協定であやふやにされていた数値目標を確認するためのものであり、当初大きな意味を持たなかった。  ところがこの新協定で示された数値目標は、期限である九二年末が迫るにつれて市場に変化を引き起こすようになる。G緊密化期がそれにあたる。九二年にはいると、通産省の働きかけもあって外国系半導体の輸入が増え始める。また、円高が進行し、日本市場が不況であることもあって、輸入は増えるが市場規模は広がらないという状態になり、外国系半導体のシェアが九二年末までに二〇%を達成することになった(図1)。不況であるにも関わらず輸入を増やしたことは、外国系の半導体が日本市場に定着することにもつながり、その後、シェアは二〇%を前後しながら、九三年も年間を通して二〇%を達成することになる。

(二) 日米半導体摩擦における日米業界団体の認知構造変化

 前項では、ROLSを使って、日本の半導体市場の構造変化の様子を分析した。しかし、それがどのような構造変化であるのかははっきりしない。輸入や輸出と生産との間の構造変化は、数字に表れた量的現象に過ぎない。その背後には何か質的な変化があるに違いない。

 しばしば摩擦が高度に政治化されると、われわれはその影響をどうしても政治的な文脈から判断してしまう。例えば、繊維や自動車といった個別の製品に関する摩擦なのに、日米関係全般に関わる影響を論じ、日米関係の危機だと考えてしまうのである。

 しかしそれは、本来摩擦を摩擦として問題提起をした当事者たちの判断とは明らかに異なったものになってしまうだろう。摩擦の本来の影響を分析し、いたずらに問題を拡大解釈しないためにも当事者がどのように現状を認識しているかを見ることが有益であろう。そこで、認知構造図の分析法を使って日米の業界団体の要職にある人物たちの言葉を通して日米半導体摩擦の影響を分析することにする。

 分析の資料としたものは、以下のものである(肩書きは当時)。

米国側
@デリル・ハタノ(米国半導体協会 政府・国際部門担当)「経済 教室 米半導体協会の三〇一条提訴 日本市場の開放ねらう」  『日本経済新聞』(一九八五年九月二三日、以下「ハタノ氏@」 とする)
Aデリル・ハタノ(米国半導体工業会副会長 通商・政府担当)  「数値目標、摩擦緩和に有効」『日本経済新聞』(一九九四年三 月一五日、以下「ハタノ氏A」とする)

日本側
B藤井乙美(日本電子機会工業会電子デバイス室長)「経済教室  SIA批判に反論 日本、企業努力で競争力」『日本経済新聞』 (一九八五年一〇月八日)
C\^吉田英彦(日本電子工業会/外国系半導体ユーザー協議会会 長)「数値目標 企業の本音\2(インタビュー)」『日本経済 新聞』一九九三年一一月一七日)
C\_吉田英彦(同)「外国系半導体の購入促進と半導体産業のボー ダーレス化の進展」(半導体国際交流シンポジウム'93プログラ ム/講演予稿集、一九九三年一一月二九日)

 藤井氏の記事は、ハタノ氏@に対する反論として書かれている。しかし、ハタノ氏Aに対する反論は今のところなされていない。よって、それに代わるものとして吉田氏のインタビューと講演予稿集を取り上げた。どちらか片方では、他の「経済教室」の記事と比べて、量的にも内容的にも足りないので、二種類使った。以上四組の資料について認知構造図のコーディングを行った結果が、図7から図10である(16)。

 これらの認知構造図を年代順に追っていくことにする。まずは一九八五年九月二三日に発表されたハタノ氏@の記事である。これは、同年の六月、SIAがUSTRに日本の半導体業界を通商法三〇一条違反で提訴したことを受けたものであった。八月と九月にすでに通産省とUSTRの間で交渉が始まっていたが、米国側の不満がどこにあるのかを明確にするとともに、その責任が日本のダンピングと市場閉鎖性にあることを改めて訴える内容である。図7を見ると、日本市場における外国系半導体のシェア(つまり米国からの半導体輸入)を阻害している要因は二つある。第一に、通産省の日本市場自由化阻止政策、第二に日本企業による米国製品の複製、である。第一の要因は、通産省が、「半導体メーカーを集約し、日本エレクトロニクス企業がお互いに製品を(補完的に)購入し合えるようにした」ということで、関税のような形式的な障害は除去されても(同年三月に日米同時撤廃されている)、通産省がそれに対抗する措置を打っているというのである。また、いくら米国のメーカーがよい製品を作っても、それを日本のメーカーが複製し、日本市場でシェアを獲得しているので、米国メーカーは本来のシェアを獲得できていないというのである。八三年からのHTWGによる合意の成果を評価しながらも、通産省の反自由化政策はSIAを失望させ、今回の三〇一条提訴に踏み切ったというのである。

 これに対してEIAJの藤井氏が翌月の一九八五年一〇月八日に反論を行っている。図8を見ると、米国製の半導体シェアが伸びないのは、OAをはじめとする産業用エレクトロニクス向けの半導体市場が冷え込んでいるためで、ハタノ氏が指摘するような日本市場の閉鎖性のためではないとしている。むしろ、問題なのは、米国メーカーの供給能力であり、具体的に三点を上げている。つまり、不慮の事故等の問題に対する対応の機敏さ、技術サービス、販売網の整備である。それらの点において米国メーカーは十分な対応を行っていないというのである。

 ハタノ氏@の認知構造図(図7)と藤井氏の認知構造図(図8)を比べてみると、お互いかみ合うところがなく、日本市場において外国系(米国製)半導体のシェアが伸びない責任を相手に帰している。ただし、藤井氏の認知構造図(図8)の中で、日本市場において外国系半導体シェアが伸びることを拒否する姿勢が見られないことは注目される。これは、条件が整えば、もっと外国系半導体のシェアが伸びてもおかしくないと考えていることを示唆している。

 ここで注目すべきは、当初問題はダンピングと市場開放の二つであったのに、ダンピングの問題は触れられなくなり、焦点はもっぱら日本市場の開放問題に移ることである。それは、ROLS分析に見たように、日本の輸出構造は早いうちに変化したという背景がある。

 これが、八年後の一九九三年になると、どのような認知構造の変化が見られるであろうか。図9は、一九九三年一一月に一七日に『日本経済新聞』紙上に掲載された吉田氏のインタビューと、同月二九日に行われた「半導体国際交流シンポジウム'93」での講演の予稿集を資料にした吉田氏の認知構造図である(17)。これを見ると一九八五年の藤井氏の認知構造図(図8)と比べて大きな違いがあることに気づく。外国系半導体のシェアを中心にしている点は同じであるが、その原因となるコンセプトが違う。図8の藤井氏の認知構造図においてシェアを拡大するのは、米国メーカーの努力であった。しかし、吉田氏の認知構造図(図9)では、日米の企業間のつながりが重要であることが分かる。つまり、日本のユーザーが米国のサプライヤー(メーカー)に対する信頼感を持つことが、ユーザー(顧客)の満足につながり、外国系半導体の市場アクセスにつながる。また、世界の半導体メーカーの水平/垂直アライアンス(提携)が、半導体市場のボーダレス化につながり、日本市場へのアクセスも改善されるというのである。

 ただし、問題の協定による目標設定については、結果ではなく、あくまでアクセス改善のためのプロセスの問題であるとして、今後のモデルとされることにはあくまでも反対の立場を表明している。

 これに対し、米国側の考えはどうであろうか。一九九四年三月一五日のハタノ氏Aの記事では、数値目標は摩擦緩和に有効であり、管理貿易を防ぐことができ、半導体こそ成功のモデルであるとしている。この背景には、期限とされた一九九二年末までに日本市場での外国系半導体シェアが二〇%を達成し、一九九三年の平均でも二〇%シェアが達成される見込みになったことがあった(図1)。図10を見ると、日本政府や業界が積極的な行動をとらなかったことが、一九八七年の米国の報復措置につながったが、これは日本の特別な努力を引き出し、日本の市場開放につながったとしている。また、数値目標自体も、日本の半導体市場の開放に貢献し、半導体分野における緊張を緩和したとしている。そして注目すべきは、数値目標とその追求が米国半導体メーカーと日本のエレクトロニクス・メーカーとの長期的関係の発展につながったというのである。日本のエレクトロニクス・メーカーとは、それ自体が半導体メーカーでもある(18)。

 吉田氏の認知構造図(図9)とハタノ氏Aの認知構造図(図10)を比べてみると、数値目標についてハタノ氏は積極的に評価しているものの、吉田氏は消極的である。しかし、一九八五年のハタノ氏@の認知構造図(図7)と藤井氏の認知構造図(図8)の中に見られなかった日米間の企業提携の概念がハタノ氏A(図10)と吉田氏(図9)のそれには表れてきている。認知構造図に限らず、ハタノ氏@と藤井氏の元の資料にも日米提携に関する叙述は表れていない。これはこの間の八年間に大きな変化が生じたということを示している。

 つまり、日米間の半導体協定は、確実に日本市場でのシェアをのばすという成果を上げると同時に、意図していなかったことだが、日米間の企業提携、そして半導体市場の統合を引き起こしていたのである。実際にこの間、特に九〇年代に入り、多くの日米企業間の提携が行われた。その全てを確認することはできないが、その一部を図11に示す。この図11を見ると、もはや日米間での競争ではなく、提携グループ間の競争に変わってきていることが分かる。また、日米のメーカーの間で行われていたいくつかの特許をめぐる訴訟も和解によって解決されている。ハタノ氏は、日本側の自己満足が市場開放にマイナスに働いてしまうことを警戒しながらも、緊張緩和を評価している(19)。

 そして、一九九四年一二月一五日、九四年第3四半期のシェアが二三・二%(米側計算方式)とこれまでの最高を記録し、四・四半期連続で二〇%を越すと、通産省は「日米がお互いの半導体部品を使って製品化するケースが増えるなど、相互依存関係は強まっており、今後も外国製半導体のシェアは増加傾向が続く」(電子機器課)と分析し(20)、「摩擦は実質終息」したとコメントした(21)。佐藤東里外国系半導体ユーザ協議会(UCOM)会長(日立製作所副社長)は、「シェアが引き続き一定の水準を示したことは、日本市場にとって外国系半導体が不可欠な存在として定着したことを示している。UCOMとしては今後も外国系半導体のアクセス拡大に向け、ビジネスベースで活動を展開していく。外国系半導体サプライヤーにも引き続き日本市場へのコミットメントを強化するよう要請したい」とのコメントを発表している(22)。また、カンターUSTR代表は、「改善が続いている現在の状況を歓迎したい」とし、「再びこの数字が下落することのないよう、引き続き穏やかで着実な進展に向けて努力していくことが必要だ」と述べた(23)。

(三) 日米半導体摩擦における数値目標の影響

 当初二つあった論点のうちダンピング問題はすぐに立ち消えとなった。半導体摩擦が表面化することによって、日本メーカーがいわば自主的に輸出を控え、価格の低下を抑えたからであった。それは、図3や図4に現れている。ダンピングが止まったことで、焦点は日本市場の開放問題に移っていった。

 ROLSによる分析に見たように、日本の半導体市場は政治に敏感な動きをしてきた。そして、米国の数値目標に基づく日本市場開放策は成功を収めた(24)。しかし、日米半導体摩擦は日本市場をただこじ開けるだけではなく、様々な変化を引き起こした。  第一に、半導体協定は、日米の半導体産業と市場を統合することになった。つまり、摩擦を経験した分野では、双方の利害調整が行われ、いわば市場の統合が行われることになり、住み分けあるいは共存がはかられるということである。通産省は半導体摩擦に終息宣言を出した。大事な点は、これまでの他の分野における日米の通商摩擦もそれぞれ終息しており、また新たな分野における摩擦が始まるとしても、一度終息した分野でまた摩擦が起きないということである。

 ハタノ氏Aの認知構造図(図10)では、数値目標が米国半導体メーカーと日本のエレクトロニクス・メーカーとの長期的な関係を発展させることになったということを現わしている。また、吉田氏の認知構造図(図9)では、市場アクセス拡大には、ユーザーとサプライヤーの間の長期的信頼関係の構築や、世界の半導体メーカーの提携が必要であるとしている。現に日米間の半導体産業の提携は急速に進んでいる(25)。図一一には、全てではないが最近の日米半導体企業の提携関係が示されている。これを見ると、日米間の対立・競争というよりも、日米のグループ間の競争になっていることが分かる。

 しかし、日米半導体協定が残したものは統合だけではない。確かに日米の半導体産業が統合されることによって、すみわけが進んだ。米国はMPUを中心とする論理回路分野に、日本はメモリーの記憶回路分野にというわけである。しかし、メモリーはもはやハイテクとはいえないかもしれない。E・S・クラウスとS・サイモンは、米国政府が通商問題に対していかなる反応を示すかを競争力とハイテクという二つの軸で分析したが、半導体はいずれの枠組みにも入らず、仮にMPUとメモリーとを分けて考えるなら、うまく説明できるとしている。MPUはハイテクであっても、メモリーはもはやハイテクではないとしているのである。メモリはーは米国にとって競争的な製品でもなく、ハイテクでもないために保護する必要のない産業であるというのである(26)。

 もしそうであるとすれば、日本は日米半導体協定によって市場のダイナミズムが奪われた結果、半導体分野の中でもさらにハイテクである論理回路分野に進出する機会と能力を奪われてしまったことになる。そして得意のメモリーの分野で韓国を中心とするアジア諸国に追撃されていることを考えれば、日本は半導体摩擦の敗者であるといえよう。これが第二の影響である。

 この第二の影響は、図1を見ればはっきりする。ROLSの分析で見たように、九〇年代に入って日米の半導体産業は緊密化を図りつつある。それは、輸出と輸入の上昇傾向に見て取れる。しかし、生産は大きく波打っており、上昇できずにいる。半導体産業では規模の経済が大きく働く。生産できないということは、新たな製品の開発にも遅れをとることになる。従来の日本の半導体産業は海外への輸出に支えられてきた。それが半導体協定によって足枷をはめられることによって、大きく基盤が揺らいでしまったということであろう。

 第三の半導体協定の影響として、数値目標に対する評価の問題がある。ハタノ氏Aの認知構造図(図10)は、数値目標が日本の市場開放を促したことを評価している。この半導体協定を先例として米国は客観基準、あるいは数値目標の設定を求めてきた。それに対し通産省を中心とする日本側交渉団は徹底的に抵抗し、客観基準の設定を認めなかった。  数値目標と客観基準はいささか意味するところが異なる。そもそも半導体協定における数値目標は、シェア二〇%という具体的な数値を達成することを求めるものであった。それに対し、客観基準は、具体的な数字をめざすことはしないが、日本市場の開放の度合いをはかるための数字による物差しであった。よって、客観基準が存在することが、即半導体協定のような目標を設定することにはつながらない。しかし、客観基準が存在することによって事実上の数値目標が設定されることになりかねない。それが通産省の懸念したところであった(27)。

 その二〇%という数値目標は、後に一九九一年の協定で、協定自体の中に書き込まれることになるが、なぜ二〇%であるかの明確の根拠にかけている。日本市場における外国系半導体のシェアが実際に達成されるまでは、半導体協定は失敗だったというのが日米双方の暗黙の了解であった。しかし、シェアの達成は数値目標の評価を一八〇度転換させることになったのである。二〇%という数字の妥当性についての論議もなく、数字が一人歩きし、ついには達成されてしまったことが大きな問題を生み出してしまったのである。もしこの数字が達成されていなかったならば、米国はまたもや半導体に関して制裁を発動したかもしれない。しかし、そうであれば、これほど数値目標が焦点になることもなかったであろう。

 第三の変化と関係する第四の変化は、日本の官僚機構、特に通産省の影響力に関する評価の変化である。ハタノ氏@の認知構造図(図7)では、通産省の政策が市場アクセスを阻害していると指摘されている。また、ハタノ氏Aの認知構造図(図10)では、通産省と業界が市場開放策を採らなかったことが、制裁の原因であるとしている。  通産省を中心とする日本の官僚の交渉における抵抗に業を煮やした米国は激しい官僚批判のキャンペーンを展開する。日本の市場開放を妨げているのは官僚だというのである。フクシマは、日本の官僚組織は動脈硬化を来しており、国民の声を反映できなくなっていると論じている(28)。

 それに対し日本の官僚側は「規制緩和」を強調することで米国にも日本の国民にもアピールしてきた。しかし、規制緩和自体が通産省の存在意義自体を弱め、通産官僚の自信喪失を招いている(29)。

 確かに半導体協定を受けて、通産省は日本企業に外国系半導体の購入の指導を繰り返した。しかし、それを産業の側からいわせると「通産省の政策に沿って米国の半導体を買っているわけではな」く、「通産省の意図しなかったパソコンブームが起こり、パソコンに不可欠な半導体を米国企業しか作っていないから、外国製シェアが自然に上昇したまでた」という(30)。確かに通産省が日本の半導体産業の育成と保護に果たした役割は大きい。しかし保護・育成という役割は事実上終わってきており、むしろその役割は市場を開放させることに変わってきているという(31)。現に吉田氏の認知構造図(図9)では、通産省の役割についてはふれられていない。

四 結論

 以上のように、ROLSと認知構造図を通して日米半導体協定がもたらした影響を見てみると、日米半導体摩擦は、日本の半導体市場に継続的に変化を引き起こし、その変化は、日米の半導体市場の統合と分業、米国の技術リード、市場開放手段としての数値目標の再評価、日本官僚システムの自信喪失といったものであった。

 こうしてみると日米半導体摩擦は、半導体産業に関する利害調整というだけにとどまらず、日米の政治システムに関する調整でもあったということができる。よって日米摩擦が個別の分野から構造協議を経て包括協議へと移ってきたのも必然的といえるかもしれない。つまり、単なるモノの取引の大きさだけでなく、それをとりまく環境やサービスまでもが問題となってきているのである。

 半導体摩擦は、半導体というモノを中心としながらも、その市場に大きな変化を引き起こし、政治システムまでをも揺さぶることになった。摩擦には内政干渉という言葉ではとても言い表すことのできない相互作用が内在しており、今後その趨勢は強まりこそすれ、弱まるとは考えにくい。その趨勢が勢いを増した日米摩擦の転換点として、半導体摩擦は位置づけられるべきである

 以上、本論文のねらいは日米半導体協定に伴う数値目標がどのような影響をもたらしたのかを明らかにすることであった。