法性寺入道前関白太政大臣
わたのはら漕ぎいでてみればひさかたの
雲ゐにまがふ沖つ白波
保元の乱の一方の主役、藤原摂関家の氏の長者、忠通のことである。天皇の外戚と
して権力を保持してきた藤原家も、院政に権力を握られ、この保元の乱をきっかけ
に新興の武士階級を権力争いの舞台に引き入れてしまい、次第に力を弱めていく。
彼が、そうした分岐点にいたのは、時代の流れの中の偶然で、彼自身の個人的能力
とは関係ないことであろう。書では法性寺流の祖であり、歌もかくのごとくであり
、勅撰集にも五十数首を採られている。保元の乱でも、後世の歴史的評価は
どうあれ、彼は勝ち組に残ったわけだ。
彼の場合、歴史上の関白藤原忠通というよりは、百人一首にこの名称で採られたこ
とにより、長い名前の代表として後世に名を残したと言ってよいのではないだろう
か。長名では、百人一首の中にもう一人、後京極摂政前太政大臣がいる。「きりぎ
りす」の歌の作者である彼の名は、藤原良経。すなわち、忠通の孫にあたる。忠通
さん、孫の名前より、入道している分が長かったわけである。
さて、入道しているということは、出家して、僧籍にはいっていることを意味する。
すると、本来は、この詠札に描かれる絵は、坊主の札でなければならない。これは
「はなさそふ」の札の入道前太政大臣(藤原公経)にもあてはまる。この2枚が坊
主札の百人一首セットもあるにはあるが、通常の官人の姿で描かれているほうが、
主流であるようだ。これは、尾形光琳の歌かるた札の絵に拠るところが大なのであ
ろう。
坊主めくりの際、登場する坊主は通常13枚であるが、実は2枚多い15枚が正し
いといえるのだが……。
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