Khun Kiattipong's Notes on the Duang Prateep Foundation
ドゥアン・プラティープ財団
ドゥアン・プラティープ財団は、1978年に設立され、タイの慈善施設として公式に登録されています。この組織は、スラムに住む人々が直面する問題、貧困や欠乏に起因する問題を語る努力から生じた。
ドゥアン・プラティープという名前は「啓蒙の炎」を表しており、この炎は財団のシンボルである。このシンボルによって、私たちは多くの友人やタイ国内外の支援者の援助に恥じない行動をするように一生懸命努力するという約束を心に刻みつけておくのだ。
財団の現在の活動
・ アンチ・覚醒剤キャンペーン
ドゥアン・プラティープ財団とクロン・トイ・スラムのリーダーたちは、タイでの覚醒剤中毒の広がりに対し、反対キャンペーンを続けてきた。過去3年間にわたり薬物の使用が5倍の増加をみたと報じられている。今年、国中で12億5千万個もの錠剤が流通したと信じられている。
財団は、1月と2月に毎週異なる地域でのアンチ・覚醒剤キャンペーンを行ってきた。それぞれの地域での公開集会や広告板での掲示に続いて、戸別訪問がなされた。ボランティアたちが家から家を回ってチラシを配布し、住人と薬物中毒問題について話し合った。
・ドゥアン・プラティープ財団の始まり
活動が始まったばかりの頃、この財団について知ったクロン・トイ・スラムの住人は、借金をしないで大学で学ぶために波止場で働いていた10代の少女であった。プラティープ・ウングソンタムは、小学校に4年間しか通っていないが、スラムの人々の生活を変えうることを明らかにするには十分であった。12歳の労働者として、彼女は夜間中学校の学費を払うために、乏しい賃金から貯蓄を始めた。彼女は教育大学に席を授与された。スラムの子供たちには学校がなかったので、彼女はスラムにある彼女の家に学校を開くことに決めた。まもなく、正式な教育よりもむしろスラムでの生活状態に対処する子供やその家族たちを援助することに多くの時間を割いていることに彼女自身、気がつくようになった。彼女の教育の第一関心は、恵まれない家庭に自信と将来に対する希望を与えることである。
彼らが立ち退きに脅かされた時は、プラティープの近所の人々がこの事件を地主、政府、マスコミに訴えるように頼んできました。この出来事は、都市の貧しい人のための公共サービスの、初めてのそして思いがけないステップとなりました。これによって、プラティープはマグサイヤー・ロックフェラー賞を受賞し、ドゥアン・プラティープ財団を設立した。彼女は、財団設立によってスラムの人々と政府両方の信頼を得ました。
・ ドゥアン・プラティープ財団の紹介
ドゥアン・プラティープ財団は1978年に、小さな事務所での5人の事務員によって慎ましやかに始まった。今や財団には100人以上のスタッフと約20人の常勤ボランティア、そしてパートタイムで手伝う人が大勢いる。1992年には、財団は新しくて洗練されたビルに移動した。そこはタイでは初めてのスラム社会のための包括的な開発・リソース・センターである。
ドゥアン・プラティープ財団は大規模に成長したが、サービスを提供している共同体との接触は保っている。おおかたの財団のスタッフ自身がスラムの住人である。ドゥアン・プラティープ財団はいつでもクロン・トイ・スラムの18地域社会や他の地域社会と密接に働いている。委員たちは定期的に財団で会合を開いている。
財団のスタッフとスラム住人たちは、絶えず情報と意見を交換している。両者の良い関係によって、ドゥアン・プラティープ財団はクロン・トイ・スラムの住人のニーズに応えることができ、社会全体の利益のために働くことができる。財団はタイの農村地方でもますます活発な活動をしている。財団のスタッフは、都市と農村の貧困問題は関連性があることに気付いている。財団の後援プログラムは多くのプログラムを支援している。具体的には、タイ国内のエイズ・プロジェクトのスタッフを支援する。地域のボランティアと共に働く。東北地方の農村共同体でアウトリーチ・プロジェクトを組織する。ドゥアン・プラティープ財団の若い女性のグループは、タイの南地方の村でプロジェクトを行っている。
財団は、タイ全土で貧しい人々の代表として認識されている。貧困はまだ広範囲に広がっている。収入格差はさらに広がっており、財団はまだまだ多くの困難に直面している。財団には5つの活動に分類される22のプロジェクトがある。
0. 教育
幼稚園プログラム
難聴障害者のための特殊学校
教育後援
0. 健康
ランチサービスと栄養プログラム
エイズ・プロジェクト
クロン・トイ・清掃プロジェクト
バンコク港の火事対策
0. 社会サービス
立ち退き問題
住居登記
出生証明
地域サービスのためのクロン・トイ生活共同組合
スラムの子供の芸術クラブ
0. 人間開発
ニュー・ライフ・プロジェクト
グリーティングカード・プロジェクト
青少年開発
高齢者福祉
0. 緊急事態基金
火事や同様の災害時における犠牲者の世話
・ バンコク・スラム
タイには6千万人の人口があり、人口の10%はバンコクに住んでいる。そのうちのおよそ20%はスラムの住人である。スラムでは、バンコクの低賃金労働者でも家を手に入れることができる。近年まで、バンコクは計画もなく発展してきた。地方からの貧しい移住者が建てた一群の掘っ建て小屋は、職場の近くの空き地に増加した。
安い労働力が大量に利用でき、労働者が職場の近くに宿泊施設を持っていることは、雇用者にとっては有利であった。しかし、都市がさらに労働者を引き寄せるにつれ、スラムはもっと混雑するようになり、範囲が広くなっていった。労働者たちは法的には認識されていなかったので、標準的な公共設備すら与えられていなかった。ほとんどの場合、十分な排水設備はなく、ゴミ収集はされず、清潔な給水設備もなかった。道路はなく、単に家とスラムの外の世界をつなぐ迷路のように入り組んだ広い歩道があるだけであった。
子供たちのための遊ぶスペースも学校もなかった。出生証明書を持たない子供もいた。そのため、彼らは公立学校にもいけなかった。それに加えて、スラムに建てられた家は公式には認められておらず、登記もされていなかった。法的には、彼らはいつでも立ち退かされる可能性があった。外部からの救援もなく、スラムが改善されることがないならば、そこの住人によって内部から改善されなければならないことがついに明らかになった。
・ 幼稚園
幼稚園はドゥアン・プラティープ財団の活動の中心となっている。スラムの状態、またはスラムの価値観からの子供の避難所として始まった。子供の両親は仕事を探している間は子供たちを放っておくしかない状態にあった。子供の家庭事情を熟知しており、教育に熱心な先生のいる地域の幼稚園は家庭生活には大変重要である。
幼稚園もまた、間もなく先生と近所の人とで問題について話し合うことのできるインフォーマルな地域センターになった。クロン・トイで運動が大きくなるにつれ、他のスラムが、地域の幼稚園設立のために助けを求めてドゥアン・プラティープ財団に近づいてきた。
ドゥアン・プラティープ財団は今やバンコクのスラムに15の幼稚園を始め、他のNGO組織が運営する農村地域の幼稚園を手伝っている。
幼稚園は選挙で選ばれた地域会議によって運営されている。財団は援助とアドヴァイスする役割を果たしている。このように、若いスラムメンバーの教育の進展にとって幸せな刺激・有益な導入になっているのに加えて、幼稚園はコミュニティの発展にとって重要な一ステップとなっている。
財団とは関係ない調査が、ドゥアン・プラティープ財団のスタッフが常に思っていたことが間違いないことを確認した。3歳から6歳で幼稚園に通っているスラムの子供たちは、心身障害に苦しむことがあまりなく、幼稚園に行ってない子供たちよりも平均的に健康的であるということである。
スラムの子供たちが幼い時、幼稚園はいい場所であると財団のスタッフが想定しても間違いない。ドゥアン・プラティープ財団は子供たちに幼稚園に通うことを促し、今やスラム・コミュニティーの15の幼稚園を援助している。
・ ランチサービスと栄養プログラム
悲しいことに、今でも多くの子供たちが一日中ほとんど何も食べるものがないか、全くないという状態で学校に行くということがある。貧しい子供たちのための教育プログラムを計画する時に、食べ物に関する計画を入れることは重要である。財団によって設立された幼稚園のうち12ヶ所では、キッチンが装備され、そこからおいしくて栄養豊富で十分な学校給食が提供されている。
それぞれの幼稚園は食事を用意する責任があり、ドゥアン・プラティープ財団は質・栄養価において高い水準を保っていることを確認する。教育を受け持つスタッフにはまた家族に対して良い食事に対する認識を高めるために努力する。さらに財団は栄養補充のために豆乳を支給している。
財団の管理下にある幼稚園の全ての子供たちは規則的に健康・歯科検診を行い、栄養不足の兆候をチェックされる。
・ 高齢者ケア
ドゥアン・プラティープ財団は、厳密に言うと、子供たちの教育を支援するという仕事で社会に認識されている。しかし、ドゥアン・プラティープ財団はクロン・トイ・スラムの全ての人のための地域組織である。全ての年齢層のスラム住人に対する献身の一部として、必要な時にはいつでも高齢者に助言と支援を与えられるスタッフを置いている。
ドゥアン・プラティープ財団の高齢者プログラムでは、役所で医薬部職員と、または起こりうる様々な問題で取り引きをする高齢者を助ける。タイでは高齢者に対する政府の福祉政策はない。それは困難な状態が生じた場合、財団が医薬費用や他の重要な費用の財政的な支援を行う努力をすることを意味する。
財団はまた、スラムの高齢者のために社交場も持っている。社交会は毎水曜日の午後にあり、体操・手工芸・その他の活動を行う。高齢者グループはまた、海岸や面白い場所へ時々出かけることもある。
4月13日タイ新年は、高齢者のための国民記念日である。彼らの手に元気いっぱいの水を注いで高齢者の親戚に敬意を払う時です。財団は新年の前の仕事日にそれを祝います。約800人の高齢者が食事をし、財団で楽しみます。これは私たちの財団が高齢者に対して表す尊敬のささいな印である。
新年のお祭りの特徴として、地域の2病院から無料で行われる視力検査がある。それらの病院は、財団から言われた高齢者に対しては特別値引き価格で白内障の手術を行う。財団は多くの白内障手術のスポンサーになることができ、他の高齢者には眼鏡を支給している。その結果、視力の低下によってひどく障害のあった人も、今や家庭の活動に再び完全に参加できるようになるのである。
近代的な生活状況では、高齢者を援助するという財団の役割がこれまでよりもずっと重要になってきている。一つ屋根に下で拡大家族が共に生活するという伝統は近代的な生活状況の下ですたれてきている。
若者が街へ職を探しに行き、自分の村を荒廃させる時、遠隔地に住む高齢者がもっとも棄てられやすい。街では、核家族という傾向はまだ続く。クロン・トイ・スラムの住人には、スラムから国立住居協会が建てたアパートへの強制移住によって、一つ屋根の下に幾世代もが住むということは非現実的になっている。なぜなら、1993年に完成した部屋は総面積がたった27平方メートルしかない。3世代は言うまでもなく、2世代でも十分ではない。
拡大家族は今でも高齢者が直面する社会問題を減少させるには最良の方法である。高齢者が家族を助け、お返しに助けられるといった、愛情に満ちた家庭環境は独りで見捨てられる生活よりもあらゆる点で好ましい。しかし、続けざまに多くの子供たちが両親の世話を放棄している時、財団は取り残された空白をうめるためにさらに一生懸命働かねばならないのである。
・ クレジット連合
1994年、地域サービスのためのスラム住民銀行として、クロン・トイ・スラム生活共同組合が出発したことは、クロン・トイ地域にとって、またドゥアン・プラティープ財団にとっても重要で新たな一歩であった。財団は、都市の貧困層をエンパワーするという希望を持ってクレジット連合を始めた。
財務大臣も参加した1994年1月の大きな会議に、21ヶ所のスラム・コミュニティが生活共同組合を始めるためにドゥアン・プラティープ財団と共に参加した。
FAOのマイクロ・バンカー・プロジェクトはかなりの援助を与えている。生活協同組合はマイクロ・バンカーによってタイ語ソフトを地域バンクのために使う最初の組織である。生活共同組合のスタッフはFAOによって訓練された。ドゥアン・プラティープ財団は幼稚園のガレージを誰でも入れる事務所に変えた。
会員はすぐに1000人を越え、皆が100バーツを会員料として支払った。新しい会員は皆、組合規則を学び、貯蓄の必要性に関して知らされるために、トレーニング会議に参加しなければならなかった。毎月、会員は少なくとも50バーツの預金をしなければならない。1994年5月、10人の会員からなる委員会がバンクの経営を引き継ぐために選ばれた。
クレジット連合の存在は、会員に自分のことをするだけの自由を与えたので、スラム共同体にとって重要な前進を示した。貧しいスラムの住人は商業銀行から融資を受けられない。また、彼らは時々一時的にお金が不足する。賃金労働者にとって病気・怪我はすぐに貧しい一家を深い貧困に陥れる。毎年5月の新学年が始まる時期に関わる出費によっても、多くの貧しい人々がお金を借りなければならない。
伝統的に、貧しい人々は生活が苦しくなると「高利貸」からお金を借りるという以外の選択肢を持たない。そのような貸し手は1日で4%までの非常に厳しい率の利子をつける。彼らはしばしば遅延支払い者に対し無法に扱う。高利貸から借金をした貧しい人々は、それを返そうと苦しむうちに、しばしばまわり続ける借金の輪に巻き込まれる。
地域サービスに努めるクロン・トイ生活共同組合は様々な目的で金を貸す。非常事態を乗り切るためには3000バーツまで借りることができる。一方で、商売を始めるためや家の改装のためには10万バーツまで借りることが可能である。借り手はもはや過去にあったような非常に厳しい率の利子に直面することはなくなった。
スラムの住人のバンクは、クロン・トイ地区にさらなる発展をもたらすだろう。貯蓄をする風潮が生じ、会員は毎月貢献することに慣れていくだろう。人々が人生に対しもっと見込みを持つようになることを促すだろう。最も重要なことは、地域サービスのためのクロン・トイ生活共同組合によって、地域が一体となって問題に立ち向かい、将来の計画を立てることである。
・ エイズ・プロジェクト
地域サービスのためのクロン・トイ生活共同組合は様々な目的に融資する。非常事態を乗り切るためには3000バーツまで借りることができる。一方で、商売を始めるためや家の改装のためには10万バーツまで借りることが可能である。借り手はもはや過去にあったような非常に厳しい率の利子に直面することはなくなった。
スラムの住人のバンクは、クロン・トイ地区にさらなる発展をもたらすだろう。貯蓄をする風潮が生じ、会員は毎月貢献することに慣れていくだろう。人々が人生に対しもっと見込みを持つようになることを促すだろう。最も重要なことは、地域サービスのためのクロン・トイ生活共同組合によって、地域が一体となって問題に立ち向かい、将来の計画を立てることである。
教育は当初からの優先事項であった。クロン・トイ・スラムを通ると必ず、エイズに関する情報を載せたポスターやニュースレターを見ることとなったであろう。
6人の専属エイズ・スタッフには、彼らの仕事を助ける300人の専業主婦のボランティアがおり、彼らは定期的に財団でスタッフと会議をし、スラム共同体に情報を広めた。ボランティアは近所の人を知っており、助言を与え、ポスターを貼り、ちらしやコンドームを配る。
エイズ・スタッフはまた、財団が寄付した背中にエイズ運動のスローガンが書いてあるベストを着ているタクシーの運転手とも親しく働く。彼らもまた、コンドーム分配に熱心で、乗客とエイズに関して話すことを奨励されている。
エイズ・プロジェクトに従事する人々は、クロン・トイ・スラムの近くで働く商業的性産業労働者のために定期的なトレーニング会議を開く。彼らは売春宿の持ち主にもその売春宿でのセイフ・セックスの規則を確立するよう呼びかけている。
エイズ運動のもう1つの主な推進事項は、すでにエイズ保持者と診断された人を世話することである。ワーカーは定期的にエイズに苦しむ人々を訪問する。助言と支援が与えられ、単に話す時間を持てることだけでも道徳的な励ましとなりうるのである。財団のスタッフもまた、病院に通っているHIVエイズ患者が適切な処置を受けているかを確かめるために彼らに同行する。
賃金労働者の病気のために、家族が貧困によって脅かされる場合には、財団が職業訓練や収入発生プログラムに資金を出す。HIV保持者の赤ん坊もまた、特別な注意を払われる。
財団のエイズ・ワーカーはクロン・トイ・スラムで働いているだけではない。彼らはよく国中で行われる会議で発言するように頼まれる。彼らはまた、北部の農村で始まったアウトリーチ・プロジェクトに地方のボランティアとして参加した。
エイズはタイ社会において深刻な脅威のままである。1995年にはHIV保持者の数は1億に達すると見積もられた。ドゥアン・プラティープ財団のエイズ・プロジェクトのスタッフは教育活動とクロン・トイ・スラムや他の地域の世話を続けるだろう。
・ 共同体の仕事
ドゥアン・プラティープ財団が教育活動・子供の世話以外に行った初めての仕事は、スラムの住人が彼ら自身、子供たち、彼らの家に対し、公式に認められることを助けたことである。出生証明、住居登記は全てのタイ人にとって必要な文書である。出生証明がなくては身分証明書を持つことができない。身分証明書がないと、州立学校にも行けず、仕事に就くこともできない。登録のされていない住居は、正式には不法であり、所有者は、基本的な公共施設を利用する権利がない。
このことはスラムの住人が市民権を否定されてきたということを意味する。その結果、彼らは慣例的に、自分たちが二級市民だという外部者としての視点を持つ傾向にある。
下水道、水道・電気という必要なものがない彼らの家は悪化し、スラムの生活を特徴づける不潔さと希望のなさの一因となっている。
今や内務省との協力で、ドゥアン・プラティープ財団は連続的で効果的な登録プログラムを供給することができる。このプログラムのおかげでスラムの住人はタイ社会で市民としての役割を果たすことができるようになるのである。過去には、立ち退かされたスラムの住民が貧しい土地で仕事を得ることもできず何の援助もなく、置かれていた。言うまでもなく、大多数は市内のスラムへと戻っていった。
しかし、今日ドゥアン・プラティープ財団はいくつかの方法で立ち退きに脅かされている共同体を支援することができる。財団は、政府機関とスラム共同体によって誠実な仲介者とみなされているので、土地所有者と立ち退かされる家族に対する適切な補償を交渉できる。基金を出す機関に、建設材料や土地購入のための融資を与えるように連絡する。そして、共同体が彼ら自身の移住と建設プログラムを組織する助けとなる。ドゥアン・プラティープ財団は幼稚園・子供ケアセンター・他の子供や共同体発展のための施設を設立する手助けを引き続いて行う。このように、私たちは従来の解決できない都市の貧困問題に、本当に食い込むことができる。
かなりの経験を蓄積したNGOとして、ドゥアン・プラティープ財団はスラムにおける地域政府の、または国家政府の主導権を補完するという役割を真剣に果たしている。スラムの状態に関する特別な知識と共同体の住人との密接な接触があるので、今や政策に応えるだけでなく、政策に影響を与えることもできる。
しかし、ドゥアン・プラティープ財団は、貧しい共同体の向上を目指した初めての人々のための組織であり続ける。クロン・トイ・スラムの中心にある財団のビルでは地域の人のためのセミナーや訓練、ワークショップが開かれる。また、スラム社会が外部の世界と接触することで発展できるフォーラムも開かれる。
・ ニューライフ・プロジェクト
スラムの家族に対する圧迫が子供にも影響を及ぼすことは避けられない。多くの家が「崩壊した」というように表現されている。子供たちは、彼らを養うことのできない年寄りの祖父母と暮らすだろう。あるいは、子供にはかまわない義理の父といることもある。おそらくいい両親と暮らしていても、子供の世話をしたり必要な配慮を与える代わりに、食べ物やシェルターを得るに十分なだけ稼ぐことに従事している場合もあるだろう。
社会の圧力と商業的な圧力は、あいまって疎外感を強化する。「彼らはスラムの子供だから、良くない。彼らは決して良いと教えられた商品や生活様式を手に入れることはない。」
もしよりよい価値観を教え、自分自身を人間として評価することを助けてくれる両親や先生がいるならば、強い人は耐えることができる。しかし、全てのスラムの子供たちが強いわけではないし、必要とするものを与えてくれる両親がいるわけでもない。学校に行ったなら、おそらく学校で助けを見つけることができるだろう。多くの場合、彼らが見つけたものはシンナーの瓶や他の中毒物質が与えてくれる彼らの世界の醜さからの開放である。ドゥアン・プラティープ財団がニューライフ・プロジェクトを提供するのは、これらの子供たち、薬物・搾取・乱用・罪の危険にさらされた子供たちである。
ドゥアン・プラティープ財団は、チャムポンの南部郊外にある191ライ(35ヘクタール)の農地を開放した。地域の農民・先生の協力によって、80人以上のスラムの子供たちが保護された共同体の中で生活し、農場で働いている。彼らは農業技術・補助技術を学び、協力精神で生活し、働くことを学ぶ。
動物の世話をする、ものが育つのを見る、彼らの働きの重要さを知る、全員が自分の仕事をする。ニューライフ・プロジェクトの効果は、たった2〜3週間で認められる。子供たちは育てた生産物を市場に持っていき、自分の努力で金を稼いだということにさらなる満足を感じる。多くの場合、彼らの人生ではじめて、生活の中での役割があり、それを成功させることができると認識する。
このプロジェクトを経験した若者が農業に職を見つけることはうれしいけれども、主要な目的は、農業従事者を訓練することではない。目的は、むしろ農場の総合的な環境に表れる質の上に立っているものである。若者たちはニューライフ・プロジェクトから、以前と同じような困難へと戻っていく。しかし、今や彼らは新しい勇気と希望でそれらに立ち向かっていく準備ができているのである。
ニューライフ・プロジェクトを経験した若者全員が都市の生活に戻りたいわけではない。多くは農業従事者を続けたがる。彼らのために財団はガンチャナブリ地方に持続性のある農業を営む自助共同体のための土地を開拓している。ガンチャナブリの土地はニューライフ・プロジェクトにいた若者のためだけではない。田舎の生活に戻りたいスラムの住人は誰でもそこに移住することができ、プロジェクトが発展することを助ける。
・ 防火と災害援助
住人が日常生活を送っているバンコクのスラムでの、火災の危険性の高さは1995年までの13年間の事実に見られる。クロン・トイ・スラムの10の主要な火事は25000人以上の住人をホームレスにした。
スラムの木造家屋は狭い歩道で区切られているだけなので、一度火事が始まったら、とてつもない速さで広がる。さらに火事は、最も近い消化栓までも距離が長く、バンコクの交通は常に混雑するので、外部の救助の到着は遅く、火事の広がりを防ぐことができないということになる。
ドゥアン・プラティープ財団とクロン・トイ・スラムの共同体は、それゆえに何年もの間、自分たちの消防設備を強化することを重視してきた。
ドゥアン・プラティープ財団は定期的に様々なスラムから来たボランティア消防士のための訓練セッションを行っている。1994年に財団は、日本の豊中市から寄付された2台の中古消防車を持つことができるようになった。
消防士たちはドゥアン・プラティープ財団において24時間体制で待機しており、彼らのサービスはよく必要とされる。財団で消防車を持った初めの年には50回以上も使用された。消防車のおかげでクロン・トイ・スラム地域の火事現場に行くことができるスピードが早くなったため、確実に大きな火事に発展するような深刻な状況にあった火事を食い止めることができるようになった。
クロン・トイ・スラムで生命をかけて消防活動をする人々の努力にもかかわらず、火事は必ず起き、数時間のうちに幾千もの人がホームレスになり、ほとんど全てを失う可能性があった。
災害が起こる時、ドゥアン・プラティープ財団は、私的あるいは州の救済組織に災害援助を頼む。財団は、ホームレスになった子供たちができるだけ早く学校に戻れるように必要なものを与える。財団はまた、ホームレスが、家が壊れる前に住んでいた場所に再び家を建てることについて土地所有者から許しを得ることを試みる。
ドゥアン・プラティープ財団が特別に注意を払うのは、バンコク港で危険な化学薬品を誤用したことが原因で起こる火事である。近年でも5回の化学薬品による火事があった。最も悲劇的なのは1991年3月2日の火事であった。その結果、30人が死亡し、160人以上が健康の悪化で長い期間苦しんだ。
ドゥアン・プラティープ財団は有毒物質に関する禁止キャンペーンを先導した。有毒物質はタイに存在する安全基準の不十分さのためにバンコク港に入って来る。バンコク港の化学薬品による火事はクロン・トイ・スラムの住人だけの脅威ではなく、バンコクの何百万という人の危険でもある。
財団は化学薬品による火事の後遺症に悩む人も援助している。犠牲者グループは定期的に財団で会い、財団は、キャンペーンの中でタイの港責任者からの補償を求め、化学薬品にさらされた結果苦しんでいる人々を支援する。
・ 難聴障害者のための特別教育プログラム
1986年に財団のスタッフは調査を行い、多くのスラム住人の子供はささいな障害のための学校に行ってないということを発見した。もちろん、彼らにはささいなことではなく、一定の教育を受けられない位重要なことなのである。最も一般的な障害は難聴だった。耳が全く聞こえない、あるいは部分的に聞こえない子供のための私立の、または州立の施設がある。しかし、そのような学校はとても数が少ないし、とても遠い。交通・費用という点で、その学校は貧しい家族の大多数の手には届かない。
調査に携わった医師たちは、難聴の子供の多くは聴覚神経の損傷に苦しんでいることを発見した。この種の損傷は少なくとも部分的には回復できるものが多い。子供が十分に早い段階で話すことを理解できるように訓練されるならば、国の学校制度から排除される必要はなくなる。ドゥアン・プラティープ財団はそのような子供たちのために、1986年に難聴者の学校を設立した。
子供一人一人に個人の必要性に合わせた補聴器が作られる。これらの補聴器は生活上でも子供の所有物となる。特別学校に最近は、3才から8才の29人の子供たちがおり、4人の先生とアシスタントの世話のもとで3つのクラスに分けられている。
学校の一日は生徒が隣の幼稚園の子供と一緒に参加できる集会から始まる。授業では健康によい習慣や社交技術、数え方、読み方、書き方、絵の技術を学ぶ。何よりも、子供たちはいつも聞くこと・コミュニケーションという基本的な技術を学ぶ。特別プログラムの子供たちはできるだけ多く、普通の生徒と一緒に行動する。キャンプや遠足、スポーツ、文化活動といった多くの余暇活動が準備される。これらの活動も、他の子供たちと共に活動する機会を与えている。
教師は、常に両親や保護者と密接に働く。難聴の子供の訓練に親を交えることは重要である。先生は両親に特別教育に参加する必要があると説明する。子供と交流することを練習する時間をとる両親は、子供の能力が急速に発達することを見ることによって報われる。
子供たちは学校に2年〜4年間いる。希望としては、彼らがしばしば普通学級に参加できるだろうというものである。障害の程度によってこれが不可能な場合、彼らはさらに進んだ特別学校に参加するためにスポンサーが付く。その学校では、能力によって、できるだけ多く普通学校制度に統合される。