この文書は『エコノミスト』94年10月24日号に私が書いたものです。
ジェームズ・ブキャナンは、1986年にノーベル経済学賞を授賞した。スウェー デン王立科学アカデミーによる授賞理由は、「経済、政治の意思決定理論を総 合化、体系化した」というものである。
しかし、当時のわが国の経済学会においては、一部の人間を除いて一般的に は意外な結果と受けとられたことを記憶している。むしろ、ワグナーとの共著 『赤字財政の政治経済学(Democracy in Deficit)』が大蔵省はじめ霞ヶ関のベ ストセラーになっていたことなどからうかがわれる通り、授賞以前には実務家 により評価されていた面が大きかったように思う。しかし経済学の世界におい て、彼の授賞は極めて重要な意義を持っていたと私は考えている。以下この小 論を通じて、その理由をお話ししていきたいと思う。
ブキャナンは、1919年に米国テネシー州に生まれ、41年テネシー大学卒業後、 48年にシカゴ大学大学院で博士号(Ph.D)を取得した。後の彼の学問的基礎をな す個人主義的自由主義思想は、大学院で師事した巨星フランク・ナイトの影響 によるものが大きいと考えられる。その後、ヴァージニア工科大学において盟 友ゴードン・タロックと共に公共選択学派(別名バージニア学派)を創設し、83 年に同じヴァージニア州のフェアファクスにあるジョージ・メイスン大学に移 籍して今日に至っている。
次に、ブキャナンに代表される公共選択学派の基本的な考え方について、私 なりの整理を行なっておきたい。大まかに基礎論のレベルと応用分析のレベル に分けることにして、はじめに基礎論のレベルから論じていくことにしたい。
社会現象を考察する際に、従来から2つの相反するアプローチが存在してきた。 社会はそれ自身を構成する組織やさらには個人のレベルにまで分解して考える のが良いというものと、社会は有機的な統一体であるのだからそのような分解 は不可能であるというものである。
ブキャナンは、方法論的個人主義と呼ばれる前者の立場を明確に採る。さら に彼は経済学の伝統的な考え方にしたがって、個人は自らの効用(要するに主 観的に抱く満足)を最大化すべく行動するものととらえ、そうした諸活動の相 互依存関係により社会現象が生み出されていくものと考えた。
ところでこの時、個人は勝手気ままに振る舞うことが許されるだろうか。例 えば、自分の欲するものを手にいれるために、相手からそれを強奪してよいか。 もちろんこのような行為は決して許されない。即ち個人はルールに従う範囲内 で、行動の自由が保証されているにすぎないのだ。ところで従来の経済学では、 各個人が守らなければならないルールについてはとりあえず与えられたものと 考え、そのルールによって規定された世界内部での出来事(生産資源の産業別 配分や所得の分配)を分析することに終始してきたきらいがあった。しかしブ キャナンは、まさにこのルールの決定自体を論じたのである。立憲経済学 (Constitutional Economics)の誕生である。
次に応用面について論じてみたい。ブキャナンの著作には、財政学の領域に 分類されるものが多い。これは公共選択の具体的事例として、経済政策につい ての意志決定の問題を解明する際に、結果的に税制や歳出決定の問題を手掛け ることが多かったことに基づく。そして、政策決定における政治課程を明示的 に考慮することを通じて、租税の選択と公共支出の選択の問題を切り離さず一 体的に取り扱うという分析手法は、スウェーデンのクヌート・ヴィクセルを開 祖とする北欧学派の系譜に属するといえる。
ところで代議制による議会制民主主義の下、再選の可能性を常に意識しなけ ればならない政治家は、選挙民の意向や圧力団体の要求を無視することはでき ないだろう。その結果、不況の際に減税、政府支出増加あるいは両方の組み合 わせを実行した結果生じた財政赤字を、好況の際に増税、政府支出削減あるい は両方の組み合わせで生じる財政黒字で十分に補填することができなくなる可 能性がある。もしそうなれば、公債残高の累積から最終的には財政インフレー ションを招来する可能性すら考えられる。
もちろんこうした理論的予想の前提には、選挙民が現在の公債の発行を将来 の増税の予約とは見なさないという意味で合理的期待形成学派とは異なる、イ タリア財政学風の財政錯覚論が存在する。
このような民主主義の弊害としての財政運営の偏向に対して、我々はどのよ うに対処したらよいのであろうか。
この問に対して、ブキャナンは均衡予算原則を憲法に明記することを主張す る。即ち彼においては、基礎論としての立憲経済学が応用分析としての財政赤 字論と密接に絡み合っているのである。そしてこうしたブキャナンの議論は、 均衡財政実現を目的とした米国のグラム・ラドマン法の成立に影響を与えたと いわれている。
州知事のリアリズム
確かにブキャナンは鋭い分析の冴えを見せるタイプではないし、完成度の高 い典雅で洗練された学風とも無縁な研究者である。しかしこのことは逆に言え ば、技術の誇示や奇想の追求に見られる経済学のマニエリスムと、彼の学問が まったく無縁であることの証でもある。
来日時にバッティングセンターで快打を連発した彼の学問は、素朴ではある が健全な力強さに満ちている。そして何よりテネシー州知事の家庭に育った彼 は、政治家や選挙民を決して理想化せず、消費者や生産者と同列に扱うリアリ ストでもあるのだ。
間違っても彼を「散漫な学際主義者」と考えてはならない。不愉快な事実を も直視するリアリズムが、政治をも射程に含めた彼の学問研究の源泉なのであ る。
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