原敬直筆メモの発見によせて(4月27日)

岩手県立図書館で、原敬の直筆メモが見つかりました。

 昨年2022年、開館100年を迎えられた岩手県立図書館さん。設立が原の発意によるものであったこともあり、同館はトップ画のようにさまざまなところで原をアピールされており、私も『原敬』の執筆過程で本当にお世話になりました。同館のには原の旧蔵書797点が「原敬文庫」として所蔵されているのですが、このうち2冊に原直筆と見られるメモ書きがあったと、同館がツイッターで知らせてくださいました。

 原は、いわゆる「積ん読」家ではなく、むしろ読書癖と書き込み癖で知られており、研究者のあいだでは原の蔵書に書き込みがあることは知られていました。とはいえ、これまでその書き込みを本格的に活用した研究者はなく、なにより、地元のみなさんが、100年続いた図書館にある郷土の先人の蔵書にとても大きな価値を見出してくださったことは、とてもうれしく感じられました。

 

 そうしたなか、読売新聞盛岡支局の広瀬航太郎さんからこの資料の価値についての取材を受けました。図書館のツイートから読めた部分だけでも面白かったのでお受けしたところ、とても的確な記事にまとめていただきました。調べてみるとなかなか面白いこともあったので、ブログの記事にまとめておこうと思います。

https://www.yomiuri.co.jp/national/20230424-OYT1T50343/

 

 今回、書き込みが見出されたのは、末広重恭『現今の政治社会』続編(原敬文庫304、博文堂、1887年12月)と合川正道『英吉利契約法』(原敬文庫467、文盛堂、1887年3月)の2冊です。県立図書館さんのツイートを見ると後者の書き込みは系統図のようになっておりとても興味深いのですが、今回は私が画像の提供をいただいた前者について書き留めます。

 読売の記事もあるとおり、著者の末広重恭は大同団結運動の前後で活躍した民権家として知られる人物です。一般には、『朝野新聞』紙上での論説や政治小説などで用いた「鉄腸」の名で言論人として知られているようにも思います。

 本書は、まさに大同団結運動のなかで執筆、刊行されたものでした。1887年は明治20年。国会開設まであと3年と迫った時期に、民権派は政府の条約改正交渉批判を軸に共闘の可能性を見出し、10月3日には芝公園の三縁亭に後藤象二郎、尾崎行雄、犬養毅、星亨、そして末広らが集まり、大同団結運動がはじまりました。本書には同年10月10日刊行の「正編」があり、その扉には10月7日付で後藤象二郎と東海散士による前文が付されています。こちらは国政や地方自治に紙幅が割かれています。

https://dl.ndl.go.jp/pid/783039/1/1

 

 原文庫にあった「続編」は末広が10月29、30日の『朝野新聞』に発表した論説の抄録であり、政事(ママ)家と輿論の関係」が論じられています。後半では原がメモに記した輿論と外交への見解も書かれています。そのことについては上記の記事にあるとおりです。読み下しは原敬記念館の敏腕学芸員・田崎さんがなさっています。岩手の方言である「ゴシヤマキ(怒っている)」は、私では到底わかりませんでした。田崎さん、ありがとうございます。

https://dl.ndl.go.jp/pid/783040/1/1

 

 さて、なぜ本書は原の手元にあったのか、少し周辺を見てみたいと思います。この年の12月15日、大同団結派は地租軽減、言論集会の自由、地租軽減、外交失策の挽回を掲げて、いわゆる「三大事件建白」を元老院に提出しました。高まる批判に対して、12月25日、政府は保安条例を即日公布・施行し、民権運動家たちに皇居三里外への退去を命じます。

 都心での活動を禁じられた彼らは、3年後に迫った帝国議会の開設に向けて見聞を広め、自らのステージを高めようと欧米へと旅立ちます。末広も、翌1888年4月にアメリカに向けて発ち、5月下旬にロンドンに到達し、議会政治の先進地で半年余りを過ごしています。その後、12月1日にロンドンを離れ、パリに入ります。

 

 そのころ、原もパリにいました。外務省御用掛から天津領事となり、李鴻章との交渉で敏腕を揮った原はパリ公使館の書記官に任じられ、1886年1月に着任していました。パリ中心部に住み、翌年には臨時代理公使にも任じられ、パリの生活にも慣れている原にも紹介があったのでしょう。12月1日の日記には「末広重恭ロンドンより来る」と記されています。

 原に末広を紹介したのは、交際官試補としてパリ公使館にいた加藤恒忠(拓川)、もしくは駐ドイツ公使の西園寺公望であったのではないかと思います。西園寺は、やはり大同団結運動の瓦解後に往訪していた星亨の求めに応じて加藤を紹介しているのですが、このときに星を「中々面白き人物にして重恭に比すれば其愚や及可く候」と伝えたというエピソードが知られています(『怪傑星亨』。なお、後年、やはり加藤に送った書簡のなかで川上音二郎を表して「彼鉄腸翁、又は星翁に比れは愉快の者に御座候」としている(『西園寺公望伝』別巻1))。真偽のほどはわかりませんが、当時の、外地における日本人の交流が目に浮かぶようです。そういえば、原はパリ日本人会の会長も務めていました。
https://dl.ndl.go.jp/pid/781971/1/1

 

 末広はフランス滞在中の出来事をまとめて書籍として公刊しています(『鴻雪録』)。それによると、到着から4日後の12月5日、シャンゼリゼ通りから1ブロックという中心地にあった原の私邸に招かれ、貞子夫人も交えて夕食を共にし、英語が通じない話などで夜更けまで盛り上がったといいます。本書はこの時に受け取ったのではないかと考えています。残念ながら、原の日記にこの日の記述はないのですが。

https://dl.ndl.go.jp/pid/761063/1/1

 

 じつはこの時、原は帰国を命じられていました。外交官として、民権派の外交論に危うさを感じるだけでなく、帰国すれば直面する議会政治への心構えを固めつつあったように思われます。政治的にも、辞職に追い込まれた井上馨外相に近い立場にありましたから、対決姿勢で臨むのは当然であったでしょう。本書に残るメモは、そうした官僚政治家としての原の想いを伝えてくれるように感じられます。記録魔の原ですが、パリ滞在中に本国政治に触れたものは少なく、その意味で貴重な「発見」といえるように思います。

 帰国後、末広は衆議院議員となり、原は農商務省を経て、外務省で陸奥宗光の側近として活躍の場を得ていきます。4年後の1892年、ふたりは朝鮮で生じた防穀令問題への対応のためにわたった朝鮮でたびたび同船、同宿し、帰国後は報告のための講演会などでも同席しています(『東方協会報告』)。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1488539

 

 両者の関係は、厚くはないものの、その後も続いていきます。1894年、末広の地元である宇和島の商船がロシア軍艦に衝突された事件では、外務省通商局長となっていた原に末広が対処を依頼している書簡が残っています(原敬関係文書)。翌年5月、原が次官に就任した際には祝い状も届き、末広は病中のため直接祝いを述べられないことを詫びています。舌癌で没するのは翌年のことでした。

 すてきな資料に出会わせてくださった、岩手県立図書館のみなさんに、心から御礼申し上げます。また伺います。

(追記:詳細は岩持河奈子さん「原敬文庫」『図書館雑誌』2023年3月号にあると原敬記念館・田崎さんに教えていただきました。昨年9月の取材、もしかするとあの新聞社さんですかね。歿後100年を起点にしてさまざまな展開が進んでいるのは、とてもうれしいことです)。

 

県立図書館のなかは、原をはじめてとして、郷土の先人たちへの愛で溢れています。すてきです。

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