恩師の恩(10月19日)

恩師の訃報に接し、書かずにはいられなくなり、書きます。

Twitterで瀬畑源さんが、『信濃』の最新号の写真を上げていた。瀬畑さんが春にされた講演録とともに、亡くなられた上條宏之先生の追悼記事が並んでいた。上條先生には院生時代から長くお世話になった。名著『長野県政史』をはじめ、その精力的で明るい人柄で長野県近代史研究を牽引されてきた方だ。早く手にとって読みたいと、なんとなくワクワクしていた。

そのままフェイスブックを括っていると、寺島宏貴さんがやはり同じ号の書影を上げていた。先生の聞き取りが笑いの絶えないものだったと書く寺島さんに、村石正行さんが、その分、深い寂寥に襲われると書かれていた。親近された村石さんだけに、さもありなんと思った。

そのあとに、信じたくないことが書き添えられていた。私の恩師、小林英一先生も先日亡くなられたという。これで『長野県政史』を書いたカルテットは全員逝かれたのだと。目を疑うとはこういうことなのだろう。村石さんに尋ねると、体調が悪くなりずっと続けてこられた執筆を辞められたこと、それでも新しい県史に向けて話をしたいとおっしゃっていたことを教えてくださった。ここ数年、先生の年賀状は家族年賀状になっていたが、今年は、かつての長野高校生であればみんながわかる、あの小さな小さな字が書かれていなかったことは気になっていた。すでにあまり体調はよくなかったのかもしれない。

先生と出会ったのは、高校2年のとき、世界史のクラスだった。先生がいる社会科研究室は、戦前に建てられた帝冠様式の校舎の2階にあり、自分のクラスのすぐ隣だった。それをいいことに社研通いというか、英一さん通いを始めた。毎日のように用事もないのに遊びにくるタチの悪い生徒に、先生はよく本を貸してくれた。かならず「貸すあほうに借りるあほう。本は買わなきゃだめだめだめ」と言いながら貸してくれる。それでも、石母田正『平家物語』を貸してくださったときは、この本がいかにすばらしいかを力説された。2年の夏に班活を辞め、学校に行く目的は、ほぼ英一さんに会うことになっていた。歴史研究に憧れ、教員になってみたいと思ったのは、まちがいなく、彼の存在あってのことだ。

インターネットのない時代、地方の公立高校生にとって、知的刺激を与え続けてくれる教員の存在意義はとても大きい。先生はよく議論してくれたし、生徒の意見でも容赦なくコメントしてくれた。それがうれしかった。授業はいつもガリ版のプリントとともに行われ、( )で空けられたブランクに教科書や資料集を見ながら言葉を埋めていく方式だった。なかでも『総覧』と呼ばれた資料集を縦横無尽に使われ、「はい、そこに指をはさんで、つぎは、~ページ」というときのリズムは、楽しく、軽妙だった。あまりに参照先が多すぎて、光武くんが「先生、指が足りません!」と言ったと噂に聞いた。あまりに『総覧』を使う先生に、彼がソーラン節を歌った際は、あの温厚で小柄な先生が激怒したとも聞いた。なんだか、あの木造の校舎がよみがえってくる。

先生が「すごい人」だと知ったのは、大学に入ってからだ。卒論が学術誌に載った「すごい人」だと、先生がいないときに社研の同僚の先生方がこっそり教えてくれたが、まさかそれが『思想』だとは知らなかった(「大原幽学論」『思想』407号、1958年)。政治学科に入ったことをとても喜んでくださり、古書市に通え、ソ連崩壊で共産主義の本が値崩れするからできるだけ買っておけと、頻繁に手紙をくださった。定年退職を前に高校を退かれると伺ったのは、そのころだった。

退職されたあとも、いや、それからの方が、先生の研究は進んだ。とりわけ、毎年のように出される『長野市の地理と歴史』(全14巻)、つづく『信州・長野県と海外』(全8巻)、『長野市域を多元的に見直す』(全11巻)は圧巻だった。ご本人は「ボケ防止」とうそぶいておられたが、伝えたいという強いメッセージは薄れることがなかった。

代表制や選挙制度に関心を持って研究をはじめたころ、せっかくなら長野を扱いたいと史料調査をはじめた私に上條先生を紹介してくださったのも英一さんだった。『長野県政史』が公刊されてからはあまり会っていないのだけれどと言いながら、労を取ってくださった。上條先生とのことは先生の追悼集(『「智徳」の人 追悼・上條宏之先生』)に書いたのでここでは記さないが、長野での充実した調査がなければ、選挙史研究の面白さは感じ取れていなかったと思う。

博論を出版してから、著書が出るごとにお送りすると、必ずきまって原稿を執筆されているものと同じワープロの感熱紙でお返事をいただいた。かたどおりのあいさつはひとつもなく、すぐに本題に入る。本題はもちろん、内容にかんする議論。日本だけでなく洋の東西を問わない博識の先生からの議論に窮することはしばしば、いや、ほとんどだったが、こうして交流を続けられることが本当にうれしかった。

お目にかかったのは、卒業20年目のパーティーのとき。あれもちょうど10年前。いや、その翌年、戸田先生の本の調査で南部図書館に行ったときにご自宅にお邪魔させていただいた。それでも、もう9年お目にかかっていない。ボストンから戻って長野に帰省したおりに、平安堂で『県歌 信濃の国』(信毎選書、2014年)を見つけたときも、「あれは30年前の本の焼き直しだから」とそっけなかった。それがまた先生らしかった。

おそらく、最後の本と思われる『単語それぞれは、定義や意味を持つ』をいただいたのは、2020年の秋。教え子として文中で名前を挙げていただいた。うれしく思うと同時に、先生がご自分のことを語られるのは珍しいなと思った。前任の飯山北高校での教え子ふたりにも触れられていた。いただいたお手紙は相変わらずの感熱紙で、宛名と、「この本の  ページにお名前をお借りしました」というところがブランクになっており、そこに手書きで「6」と入っていた。飯山北高校のおふたりにも同じ文面で送られたのだろう。なんだか、世界史の講義のプリントを思いだして噴き出してしまった。

でも、そのお手紙の最後には、「これは、ワープロの感熱紙に印字しただけのものですので、日が経てば薄れてしまいます」と書かれていた。勘弁してくださいよ、ずっと読みたいのだから。

そういえば、以前、村石さんと食事をご一緒した際に、感熱紙の生産が中止になると聞いた先生が市内の感熱紙を買い占めたという話を伺った。先生はこれからも書き続ける意欲に溢れているんだと嬉しくなったことを思い出す。

先生の印字が薄くなる前にコピーを取っておいたら、とも言われた。でも、このままでいいのだと思った。先生が書いてくれた宛名と、「6」の字はずっと残る。薄れたもののも残る。

高校で僕を救ってくれた三人の恩師のうち、戸田忠雄さんは2017年に亡くなられた。戸田さんとは共著を一冊出す幸せを持てた。英一さんには本にお名前を書いていただけた。でも、先月脱稿した論文で『長野県政史』のすごさを再認識した話は、その論文を送ってお伝えしたかった。

あとひとり、本当にお世話になった担任の宮下拓朗さんは、彼の教え子を大学で受け持つ奇縁をいただいた。実咲、ありがとう。でも、宮下先生とももう10年会っていない。上田に尋ねてみようかな。

気持ちを紛らわすために書き連ねました。ちょうど今日のゼミで、日記を公開することを研究テーマにした学生の発表があったので(彼女も長野出身ですね)、ただただ思いと思い出を連ねた今日の「日記」をブログに記してみることにしました。なんだかまったく整理がつきませんが、先生への感謝を込めて。


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