情報公開法には問題もある。マスコミによる情報加工の危険性、すなわちマスコミによる偏った報道への懸念である。
情報公開が進むとマスコミの利用できる情報量は今より増えると言える。それは、現在では記者クラブにしか流されていない、「クラブ財」と呼ばれる、政治、経済の政策に関する重要情報が、一般にもオープンになるからだ。「クラブ財」に対して、現在マスコミによって自由に報道されている情報を、「公共財」と呼ぶ。「クラブ財」には、専門知識のない一般人には理解しにくい情報が多いのだが、そのような情報を、誰にもわかりやすく報道する、つまり「クラブ財」を「公共財」にして報道するのは、マスコミの役割であり、使命であると言える。故に、私たちは、マスコミが「クラブ財」を理解しやすくするために情報を加工するのはやむを得ないが、その際に、そのマスコミの責務を隠れ蓑にして現在でも行われているような過度の加工を行う危険性があることは無視できない事実である、と考えた。
故に、私たちは、マスコミが「クラブ財」を理解しやすくするために情報を加工するのはやむを得ないが、その際に、そのマスコミの責務を隠れ蓑にして現在でも行われているような過度の加工を行う危険性があることは無視できない事実である、と考えた。
それでは、過度の加工というのは行ったいどういったものであろうか。例えばODAがそのいい例である。ODAに関しては現在様々な種類の本、あるいはテレビでも広く報道されていることであるが、その報道の姿勢はおおむね「税金の無駄使い」という形であり、政府批判になりがちである。しかしながらODAの現実は報道機関が与える印象ほど悪いものではない。しかし、政府批判の報道が一般論のように流れてしまっては、一般的な心理として国民はその運用に反対とはしないまでも疑惑の目を向けることは間違いない。このように情報の偏った報道は、国民の考える機会を奪い、盲目的にさせてしまうおそれがある。
さらに私たちは、日本のマスコミの起動力の弱さに着目した。現在の日本のマスコミは、記者クラブから伝わる情報に依存し過ぎていて、アメリカのCNNなどと比べると、驚くほど足で情報を稼いでいないという事実がある。その証拠に、どこのテレビ局でも同じような報道をし、どの新聞の見出しや記事の並び方を見ても似たりよったりで個性が感じられない。これが、情報公開によって情報へのアクセスの道が開かれることで、マスコミはますます足で情報を稼ごうとしなくなるだろうと、私たちは考えたのだ。そして、結果的に情報のリソースが同じになってしまうので、それぞれの報道機関の個性はさらに薄れてしまうだろう、と。報道機関の個性が薄くなることは、情報の受けてである国民が、情報を自分なりに解釈する機会が減少することを意味している。その結果、もし国民が自国の政治、その他の問題に対して自分の意見を持たないようになったり、感心が薄くなったりすることがあったら、このことこそ、私たちが最も好ましくないと考える、情報公開の弊害なのである。(この問題についての我々の解決方向への見解としては、記者クラブ制度と、マスコミの怠慢な態度の改善ということで意見が一致したが、具体的なことはグループワークの本旨とずれた問題になるので深く検証はしなかった。)
しかし、この考えとは全く異なるケースも考えられる。情報公開法により、マスメディアが、公正で独自の報道をできる可能性もあるだろう。例えば1979年には、アメリカの「情報自由法」を使い、韓国の金大中氏ら致事件に関する報道を共同通信社が行なっている。縦割りで、排他的な行政の側のPR機関「記者クラブ」での情報ばかりを使っている報道を大きく変える可能性があると言える。そして、「公的情報は社会のもの」「納税者が情報主権者」といった考えが根付くかも知れない。
もし、マスメディアが変わらなかったとしても、現在の情報化社会において、インターネットによる真実の公開なども考えられる。例えば、原子力発電所が本当に安全であるかの詳しい情報は現在は手に入らないが、法制定後は、その地域住民が直接調べることができるようになる。その他有力な主体としては、市民団体が考えられる。