1789年のフランス人権宣言第15条には、「社会は、その行政すべての公の職員に報告を求める権利を有する。」という形で、すでに情報公開の精神が伺える。情報公開は、民主主義にとって、本来欠かせざるものなのである。現に、立法・司法は公開である。国会見学は可能であるし、裁判の見学も自由である。国が国民のものであるというのなら、その情報も国民のものであるのではないか。アメリカで情報自由法が制定された当時司法長官だったクラーク氏は、「政府が人民の、人民による、人民のためのものであるならば、人民は政府の活動を詳細に知らなければならない。秘密ほど民主政治を悪くするものはない。政治への国民の参加は知識を有する公衆についてのみ意味がある。我々がいかに統治するかを知らなければ、どうして自らを統治することができるのだろうか。政府が各人に多くの方法で影響を及ぼす大衆社会の時代以上に、国民のその政府の活動を知る権利が獲得されることが重要なことはない。」と語っている。カントも「民主主義国家の格率は、公開である」と言っている。民主主義国家での主権者は国民だからである。しかし、マックス・ウェーバーが言うように、官僚の権力的地位の根拠は行政の分業的技術と知識である。「官僚的行政は、その傾向からいえば常に公開性を排斥する行政」「『職務上の機密』という概念は官僚独自の発明品なのであり、この態度ほどの熱心さを持って官僚性が擁護するものは何一つとして存在しない」。そのため、情報の公開がなされないのである。
実際問題、情報公開制度により、何が変わるのか。薬害HIV・東京都下のゴミ処理場問題・原子力発電所などの事例から分かると思う。もし、情報が公開されていたら、輸入血液製剤によってHIVに感染した人はいないのではないか?なぜ、問題がないのなら、汚水が洩れていないことを情報を公開して証明しないのか?安全安全と言うが、それならば、情報を見せて欲しいと思う住民の願いをかなえても良いのではないか?と、少し考えただけでもこのような事例がある。その他、日本の捕鯨についてや、日米政府間の貿易交渉の内容もうかがい知ることができる。