12547 返信 1937,8年に「南京虐殺」はどのように伝えられたか URL 渡辺 2002/01/13 23:50
同様の返信はすでに投稿しましたが、内容をより詳しくしました。今後も内容を充実させたら、また投稿する予定です。

これは、もともとMONOさんの「12403 文化大革命と国民党って関係あるんですか」2002/01/06 への返信です。
http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_plain?base=12403&range=1

MONOさん:>
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> 戦中から東京裁判での判決まで
> 大虐殺と銘打たれるような問題に南京という場所は挙がっていない。
> 南京陥落の翌年の段階でも、蒋介石も毛沢東も国際連盟も南京で虐殺があったということは
> まったくふれてません。
> 南京大虐殺という言葉自体かなり後になってできた言葉だったと記憶しています。
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他の掲示板でも同様の投稿がありました。
なぜ、このようなことが流布しているのかよくわかりませんが、そんなでたらめを書いている本があるのでしょう。「虐殺」がなければ、戦後に問題になるはずがありません。

当時の文書で「南京事件」をどう記述していたかをリストアップしました。
「大虐殺と銘打たれるような問題に南京という場所は挙がって」いたことを示すためですので、ニュースソースが同じものも掲載しました。
なお、端的に言いますと最初に NANKING MASSACRE と報道したのは、シカゴ・デイリーニュースの1937年12月15日の記事で、公文書では1937年12月30日のドイツ大使館のものです。
当時は南京城内やその近傍での虐殺の実体が部分的に知られていましたが、特に近郊で何があったかはまだよく分からない時期のものです。

(A)「虐殺」を報じる報道

(1)新聞:

1-1)シカゴ・デイリーニュース(The Chicago Daily News) 1937年12月15日
A,.T.スティールの記事

NANKING MASSACRE STORY
Japanese Troops Kill Thousands
'Four Day's of Hell' in Capital City
Told by Eyewitneses; Bodies Piled Five Feet High in Streets By A.T.STEELE

[和訳]
南京大虐殺
日本軍何千人も殺害
目撃者の語る字″地獄の四日間″
通りに五フィートも積る死体の山
[南京事件調査研究会「南京事件資料集 1アメリカ関係資料」(青木書店,1992年)P465]

1-2)シカゴ・デイリーニュース(The Chicago Daily News) 1938年2月4日

記者は、パニックの南京の中国人虐殺をアメリカのジャックラビット狩りに比す
<途中省略>
私は集団処刑を一つ目撃した。数百人の男達の一隊が大きな日本国旗を抱えて付き添い、空き地へ引き連れて行く。そこで彼等は小人数ずつ、残虐に銃殺された。一人の日本兵が小銃を手に、膨れ上がる死体の山を監視しており、少しでも動きを見せる人体があれば、弾丸を浴びせた。
日本軍にとってはこれが戦争なのかもしれないが、私には単なる殺戮のように見える。
[南京事件調査研究会「南京事件資料集 1アメリカ関係資料」(青木書店,1992年)P475,P477]

1-3)ニューヨク・タイムズ (New York Times) 1937年12月18日
F.T.ダーディンの記事

十二月十七火、上海アメリカ船オアフ号発
0ニューヨーク・タイムズ宛特電
南京における大規模な虐殺と蛮行により、日本は現地の中国住民および外国人から尊敬と信頼が得られるはずの、またとない機会を逃してしまった。
<途中省略>
少なくとも戦争状態が終わるまで、日本の支配は厳しいものになるだろうという気はしていた。ところが、日本軍の占領が始まってから二日で、この見込みは一変した。大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害、住民を自宅から放逐、捕虜の大量処刑、成年男子の強制連行などは、南京を恐怖の都市と化した。
<以下、長い記事なので省略>
[南京事件調査研究会「南京事件資料集 1アメリカ関係資料」(青木書店,1992年)P417]

1-4)ニューヨク・タイムズ (New York Times) 1938年1月9日
F.T.ダーディンの記事

南京侵略軍、二万人を処刑
日本軍の大量殺害――中国人死者、
一般人を含む三万三千人
<長い記事なので省略>

[南京事件調査研究会「南京事件資料集 1アメリカ関係資料」(青木書店,1992年)P428]

1-5) ワシントン・ポスト 1937年12月17日

日本、南京入城式典を
一九三七年十二月十七日
中国人男子を大量処刑
蒋、抗戦継続を訴え
<途中省略>
大量処刑を執行
少しでも軍隊に勤務していたものと見える中国人男子はすべて集められ、処刑されたと、メンケンは言った。

[南京事件調査研究会「南京事件資料集 1アメリカ関係資料」(青木書店,1992年)P516]

(2)雑誌、書籍:

Georgr Fitch の Nanking Diary の掲載

2-1) ケン (Ken) 1938年6月2日号

2-2) リーダーズ・ダイジェッスト(Readers Digest) 1938年7月号 に要約掲載
ケン (Ken) 1938年6月2日号の要約

The Sack of Nanking
Condensed from Ken
As told to John Malony
[Readers Digest, July, 1938, P28-31]
フィッチの My Eighty Yaers in China によれば、掲載後数ヶ月たってからJohn Malonyが雑誌に掲載したことをフィッチは知った。

2-3) What War means / Japanese Terror in China 1938年7月刊行

H.J.Timperley が編纂した、What War means (英国:Voctor Gollancz)、 Japanese Terror in China(米国)でほぼ同時に刊行され、フィイチの Nanking Diary 、ベイツの文書、安全区委員会の文書などが掲載された。
その他、カルカッタ版というものがあることが知られている。

What War means が、最初に「南京事件」を世界に紹介したといまだに記述している書籍がある。しかし、正しくは Ken誌で、米国で大きな関心を呼ぶきっかけ、リーダーズ・ダイジェスト6月号である。

2-4) リーダーズ・ダイジェッスト(Readers Digest) 1938年10月号 に全文掲載

"We Were in Nanking"
6月号で多くの読者から反響があり、信じられない内容で明らかに宣伝のたぐいだいう声があったので、要約ではなく全文の抜粋が掲載された。
フィッチの日記は、12月18日から5月3日の抜粋。その他、スマイスの日本大使館宛の手紙とベイツの米国への手紙の抜粋が掲載されている。

(3)「南京虐殺」という語を使った公文書:

駐華ドイツ大使館(漢口)宛、発信者−ビバー(駐華ドイツ大使館書記官、北平[北京])
一九三七年一二月三十日付け北平ドイツ大使館分館
文書番号二七二二/四三七九/三七
内容−日本軍による南京占領時、および華北における中国人大虐殺

大使館に宛てて、二本の報告の写しを送付する。これは、米国の知人[註1]から提供されたもので、日本軍が南京陥落後三日間にわたり、都市住民にたいしておこなった大虐殺に関する目撃報告である。
<途中省略>
これらの目撃報告は、中国における日本軍の非人道的な戦争遂行の全過程で、南京大虐殺[翻訳註1]ほど凄惨な殺戮はこれまでなかったとの点で一致している。

[石田勇治翻訳「資料 ドイツ外交官の見た南京事件」(大月書店,2001年)P24-26]
渡辺[註1] M.S.ベイツとA.T.スティール
[翻訳註1] Nankinger Massacre

(4)中国政府の声明

1938年2月1日 国際連合理事会第六会議議事録

議長による決議案(C/69/1938/7)の提案に続き、顧維鈞氏の演説−
<途中省略>
ただ、その一端を物語るものとして、日本軍の南京占領に続いて起こった恐怖の光景に関する『ニューヨーク・タイムズ』紙特派員の記事を紹介すれば十分でしょう。このリポートはリポートは十二月二十日付の『ロンドン・タイムズ』紙に掲載されたものです。特派員は簡潔な言葉で綴っています。「大がかりな略奪、強姦される女性、市民の殺害、住居から追い立てられる中国人、戦争捕虜の大量処刑、連行される壮健な男たち」。

[石田勇治翻訳「資料 ドイツ外交官の見た南京事件」(大月書店,2001年)P1387-138]

(5)米国で発行されたカード:

1938年 戦争の恐怖カード 南京の恐怖の一週間 (Horrors of War, GUM Inc., Nanking's Week of Horror, 1938)
写真↓(大容量)
http://image2.photohighway.co.jp/ixla-bin/MiFoto.dll?Vi?p1=0046_055&p2=5568121538f1&p3=00

(B)遺体数に関する記述:

(1)公文書

1-1)ローゼン

ドイツ外務省(ベルリン)宛、発信者−ローゼン(南京)
一九三八年三月四日付南京分館第二二号
文書番号二七二二/一八九六/三八

内容 − 南京の状況
<途中省略>
紅卍字会はゆっくりとしたペースで大量の死体の埋葬に取りかかっている。死体の一部は、まず池と地下壕(かつての防空用)からときに積み重なった状態で掘り出さねばならない。たとえば、大使邸の近くの大通り沿いがそうであった。川港町の下関一帯に依然として横たわっている三万体の死体は、テロがピークを迎えた時期の大量処刑で生じたものだが、紅卍字会はそこから毎日五、六百体を共同墓地に埋葬している。辺りを歩くと、散乱した死体が畑や水路の中に見られるし、棺がいたるところに(大使館庁舎の建物から最も近い町角にさえ)何週間も散らばったままである。

[石田勇治翻訳「資料 ドイツ外交官の見た南京事件」(大月書店,2001年)P218]

1-2)スマイスの記録

記録
一九三八年三月二一日付
作成者―南京国際救済委員会(スマイス)
[欄外にローゼンの書名]

内容 − 現在の状況に関するメモ

<途中省略>
死者の埋葬に従事した諸団体やその他の観察筋の情報を集計すると、南京城内で一万人が、城外で約三万人が殺害されたと見積もられる。ただし、後者の数は、長江の川沿いをあまり遠くに行かない範囲のものである!こうした人々は、全体のおよそ三〇パーセントが一般市民であると見積もっている。
[石田勇治翻訳「資料 ドイツ外交官の見た南京事件」(大月書店,2001年)P233]

1-3) What War Means の第3章(ベイツによる)1937年12月26日

原文:
Finally, it should be remembered that this incident is only one of a series of a similar acts that had been going on for two weeks, with changes on the main theme of mass murder of men accused rightfully or wrongfully of being ex-soldiers.This is not the place to discuss the dictum of international law that the lives of prisoners are to be preserved except under serious military necessity, nor the Japanese setting aside of that law for frankly stated vengeance upon persons accused of having killed in battle comrades of the troops now occupying Nanking.Other incidents involved larger numbers of men than did this one.Evidence from burials indicate that close to 40,000 unarmed persons were killed within and near the walls of Nanking, of whom some 30% had never been soldiers.
[WHAT WAR MEANS: The Japanese Terror in China, H.J.Timperley, London Victor Gollancz Ltd, 1938, P58-59]

邦訳:
最後に、忘れてはならないことは、この事件はここ二週間にわたって続けられた一連の同様の行為のうちの一つにすぎないが、ただその主題が変じて、元兵隊であろうがなかろうが、とにかく元兵隊と認定されたものの集団虐殺となったということだ。ここは、、捕虜の生命はさしせまった軍事上の必要以外においては保証されるという国際法の条文を語る場所でないし、日本軍もまた、国際法などは眼中になく、いま南京を占領している部隊の戦友を殺した人間に対しては復讐をすると公然と言明したのである。 他の諸事件はこの事件よりも多数の人をまきこんだ。埋葬による証拠の示すところでは、4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の附近で殺され、そのうちの三〇パーセントはかつて兵隊になったことのない人々である。
[日中戦争史資料 9, 洞富雄編, 河出書房新社,昭和48年, P47]

[渡辺註1]
What War Means には、文書の作者は書かれていない。
しかし、徐淑希「南京安全区档案]弟五十号文書 MEMORANDUM ON AFTERMATH OF REGISTRATION OF REFUGEES AT NANKING UNIVERSITY December 26,1937 と同じ内容なので、文書作成者はベイツ、日付は1937年12月26日と考えられる。
なお、What War Means の中国語訳「外人目睹中之日軍暴行」及び「南京安全区档案]には「埋葬による証拠の示すところでは、〜かつて兵隊になったことのない人々である」という被害者数にかんする文は掲載されていない。
40,000という数字は、上記 1-2)のスマイスと一致するので、同じ情報を記述したものではないかと推測される。

[渡辺註2]
北村稔『「南京事件」の探求』(文藝春秋)P121で、「誤訳(改竄?)」と指摘している個所について、直訳を付しておきたい。

渡辺訳(直訳):
ここは、捕虜の生命は重大な軍事上の必要以外においては保証されるという国際法の見解を論ずる場所ではない。また、いま南京を占領している部隊の戦友を殺した人間に対しする公然と言明された復讐により日本軍が国際法を無視していることについて論じる場でもない。

確かに「日中戦争史資料 9」の訳には問題がないとはいえない。しかし、こなれた日本語にするには、思い切った意訳を要する日本語にしにくい個所である。中国語訳でも文を分割して「日中戦争史資料 9」と似た訳をしている。
『「南京事件」の探求』では「日本軍が〜国際法を無視しているか否かを論じる場であはない」としているが、原文は日本軍が「復讐」により国際法を無視していることを断定、それを前提としており、「国際法を無視しているか否か」などとは書れていない。前後関係、文脈からいえば、こちらのほうが よほどひどい誤訳である。
『「南京事件」の探求』には、かなりおかしなことや、あきらかな誤りが平然と書かれているので、後日、まとめて指摘したい。

1-3) ウィルソンの家族への手紙 1938年5月7日

原文:
The Red Swastika Society has for the last month been feverishly burying bodies from all parts of the city outside the zone and from the surrounding countryside.
The conservative estimation of the numbers of people slaughted in cold blood is somewhere about 100,000, including of course thousand of soldiers that had thrown down thir arms.
["Documents On The Rape Of Nanking", Timothy Brook,Ann Arbor Paperbacks, 2002, P254]

[渡辺訳]
紅卍字会は、ここ1ヶ月間、安全区外や周辺農村部からの遺体を ものすごい勢いで埋葬しています。
冷酷に虐殺された人々の控えめな推定数は、およそ10万人程度です。もちろん、武器を放棄した多数の兵士達もその数に含まれています。

(2)中国報道

2-1) 南京同胞、敵の蹂躪に遭う
新華日報 1938年5月30日
<途中省略>
昨年十二月十二日から今年三月末南京を離れるまでに、惨殺された南京の同胞は一〇万をくだらない。

[「南京事件資料集 2中国関係資料編」(青木書店,1992年)P60]

2-2) サウスチャイナ・モーニング・ポスト 1938年2月23日

日本軍に冷血にも殺された中国人は、南京では八万人は下らないと見られる。そして、首都陥落以来、一万人の婦人が暴行された。これらの犠牲者の多くが、国際救済委員会が設立した難民キャンプから強制的に連行された人たちだといわれたいる。

(3)ヒットラーに送ったラーベの講演の草稿(上申書) 1938年6月8日

 中国人の申し立てによりますと、十万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々ヨーロッパ人はおよそ五万から六万人とみています。遺体の埋葬をした紅卍会によりますと、一日二百体は無理だったそうですが、私が南京を去った二月二十二日には、三万体の死体が、埋葬できないまま郊外の下関に放置されていたといいます。
[ジョン・ラーベ著,エルヴィン・ヴィッケルト編/平野卿子訳「南京の真実」(講談社,1998) P267,P317 を渡辺が"誤訳"を訂正して引用]

(4)ミニー・ヴォートリンの日記

(1938年)
2月16日 水曜日
<途中省略>
五時から六時の間にY.G.巌さんが訪ねてきた。彼は殺されたと聞いていたのだが、しかし、彼にはその話はしなかった。彼の話によれば、占領の初期に三[ミ叉]河で一万人が、燕子磯では二万人ないし三万人が、下関ではおよそ一万人が殺害されたと聞いたそうだ。彼は、多くの夫と息子は絶対に帰ってこないと確信している。頻繁にわたしのところへやってきては、嘆願書に書かれている情報を何か聞いていないかと尋ねる女性にたいし、あなたたちの夫が帰ってくることは絶対にない、などと、どうしてそんなことが言えようか。
[岡田良之助/伊原陽子訳「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」(大月書店,1999年)P172]