16425 | 返信 | Re:現代芸術の発想について | URL | おっちゃん | 2002/11/24 00:33 | |
ベルナールさん、 >おっちゃんが「飛翔板」(#3197) で展開された「『知らせあうこと』(コミュニケーション)」論と同様のダサい芸術論であり、アルツハイマー型ならぬ「自己完結型」老人性痴呆症の典型例 (宇宙的ナルシシズムの囚われ人!) とも云うべきもので、その症候は、「言葉」と「お金」を通底させる発想によくあらわれていますね。 あれ? いつぞや「贋金」の問題をいち早く持ち出したのはベルナールさんではなかったかしら? >「お金」とのアナロジーでとらえられた「言葉」の件ですが、その場合の言語とは、われわれが生まれる前から共同体内で使用されている他者であり、母国語が使用できない外国語に行けば、たちまち贋金となってしまう事態を迎えるものでしょう。 え? ある通貨が共同体外では通用しない(言葉が通じない)というのはきわめて正常なことであって、両替あるいは翻訳によってその問題はある程度克服されていると思っておりました。そのことがそれぞれの言葉(語られること)の価値を否定することにはならない。皆さんそれほど馬鹿ではない。 むしろ「贋金」は、言葉の問題で言えば「虚言」あるいは「ハッタリ」にあたるものでしょう。 ということで >われわれは、日本語を自由に操り語っているように見えても、実際は、日本語に属する文法や発音や語彙といった体系の拘束のなかでそれを超えることができず、限界づけられています。 私にいわせれば、これは何を言っておるの?ということになります。 一万円札を拾って、他国で通用しないからという理由で失望する人はいない。 (注:お金を拾ったら交番に届けましょう) >しかし、こうしたコミュニケーションの場は、個が群という共同体の内部に予定調和的に吸い上げられて、そこに構造化され、言語的等質空間という閉域のなかの共同主観性のなかに描かれています。自と他が言語を介して相互に交換可能な個としてあらわれるこの世界においては、共通の知に向かって語りかけることで各人がその存在を受け取り、他者が「私の自我の変様体」(フッサール) としてあらわれます。つまり、「自分のような他者」しかいない、鏡像的分身の集合体ですね。 共同体(共同主観性)のなかで他者が「私の自我の変容体」であることは目新しいことではありません。それほど滑稽(否定すべき)なことでしょうか? >人間に芸術的あるいは宗教的希求が止みがたく存在するのは、こうした言語的均質空間において、われわれの共同体の内部に取り込まれはするが、そこには依然として「語り得ぬ」、内部には解消されない残余が残り、翻訳されることを拒んでいるからでしょう。しかし、ここで忘れてはならないのは、こうしたわれわれの世界の外部に留まるものへの想定もまた言語によるものであり、人間が人間であることと言語性がわかちがたく結びついているこいうことです。 「人間に芸術的あるいは宗教的希求が止みがたく存在する」ことに、「言語」の問題になぜそれほどまでに固執されるのか理解しがたいことです。「言語性」云々を持ち出さずとも十分に論理の展開は可能ななず。「わかちがたく結びついている」ことは否定しませんが、だからどうということはない。 >おっちゃんが、楽譜と「生の音」を対置し、後者にアクセントを置かれる発想は、実に言語同断なものです。ハイデッガーは、事物や人に定位するわれわれの存在を「あるものをあるものとして」(etwas als etwas) 分節すると述べました。つまり、われわれが聴いているのは、はじめから「ドアの閉まる音」とか「得たいの知れぬ」として (als) と解釈されてしまった音であり、純粋に無紀的な物理穏ではないということです。「直感」などという直接無媒介な現実への素朴な憧憬論に固執するのは、単に幼稚であるに過ぎません。いかなる人間的営為もある認識の枠組みにとらわれているというのに、その「媒介」に対する洞察を持てないこと (典型的なロマン派的心性!) が、おっちゃんが永遠の「堂々巡り」を繰り返す理由です。 これもいいがかりというものです。 私は「楽譜」と「生の音」を対置したことはありません。むしろ「楽譜(の音)」は「生の音」の延長あるいは発展形(進化形)だと考えます。「楽譜(の音)」を「生の音」から分離・分断した張本人こそ「楽譜」そのものではないですか。ベルナールさんの教養の先走りといいますか、時系列が逆転しております。 >現代アートを簡潔に要約すれば、ミニマリズム、アモルファス、レディメードなどとして大きく間違いはないと思いまが、その共通点は、それを「起源」(origin) とする「独創性」(originality) への徹底した不信と、文字素、画素、音素にかかわる自己言及性の自覚とその解体によって、「自己完結型」世界からのテイクオフへの希求でしょう。そして、こうした傾向は、「〜でない」とか「全てであり無」であるとか、否定的・反語的語法の枚挙によって「語り得ぬもの」を語ろうとする否定神学の発想と酷似しています。「神学議論」という語は、実際にそれを知らぬ者にとっては、「重箱の隅をつつくような瑣事への拘泥」の比喩としてしばしば機能しますが、現代思想や現代アートの着想を駆動しているのは、極めて神学的な発想なのです。 ということで偉大なる飛躍といいますか、「神学的な発想」が飛び出しましたね。お里が知れてしまいます。 神学どころか宗教だの神だのの「言葉」が登場する前にも、芸術や宗教あるいは科学への発展を可能性として内包する(しかし未分化な段階の)人間的営為が存在したのです。 それらは当然「神学的な発想(あるいは限定)」によって語り得るようなしろものではありませんし、どちらかがどちらかを「駆動」するという性質のものでもない。 >おっちゃんもアーティストなら、畢竟西村某や土屋某並の政治的反動性にしか行き着かない、「一人ツッコミ、一人ボケ」のさえない吉本風喜劇から、そろそろ離脱すべきでしょう。おっちゃん芸術論は、ロマン派全盛期の19世紀のそれです。未知の発想を既知の枠組みに分類することに汲々とし、「自己完結型」世界に立てこもる「現代」アーティストなど存在しませんからね。う〜ん、アナクロニズムの極致は、ダサ過ぎる! 文明によって途方に暮れた現代(人間の戸惑い)をさらに「象徴」するかのような芸術シーンにあって、人間とは何かという原点を希求しての人類の遠い過去への回帰です。それを「アナクロ」と言われては立つ瀬がない・・・ |
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