16998 | 返信 | Re:辺見庸「永遠なる不服従」より | URL | へちま鼻 | 2002/12/21 20:37 | |
野崎さん、こんばんは。へちま鼻です。 日本の「文壇」に横溢する政治的痴呆化の中にあって、辺見庸さんはほとんど孤軍奮闘状態ですよね。 > *************************************** > > 2002年3月15日マサチューセッツ工科大学の研究所に訪ねた。 > 途中略 > > 「他人の犯罪に眼をつけるのはたやすい。東京で『米国人はなんてひどいことをするんだ』 > というのは簡単ですよ。あなたたちが今しなければならないのは、自身を見ること。鏡を > 覗いて見ることです。そうしたら、それほど安閑としていられないでしょう。」 > > 「1930年代、40年代、50年代、そして60年代、いったい、日本人の知識人の > どれだけが天皇裕仁を告発したというのですか。」ろくにそれさえしていないではないか。 > 戦後50有余年をふくむ長い歴史には、あなた方が記憶にとどめておかなくてはならない > ことがらが数多くあるはずだ。それをまず振り返るべきではないか。 > > ********************************************************** > まさに日本のジャーナリストや私たちに痛烈なパンチを与えた彼の言葉は重いです。 全くその通りですね。 とはいえ、1930年代のきわめて困難な時期でも、天皇制を側面から告発しようとした人も、ごく少数ながら存在していたことは、特筆されるべきでしょう。 例えば、 ―――――――― 「家族にあつては例えば二心一体である二人の成員は、一心同体であつたり一心二体であつたりする。その気持は分析説明の限りではないのであつて、全く直覚的に、直接に、さうでなくてはならぬ。違つた二つのものが直接に直感的に一つと考えられるのは、全く象徴や譬喩の論理なのだが、恰も家族主義の論理は社会を家庭によつて譬喩するものに他ならなかつた。この譬喩は×××的『象徴』と共に、論議すべからざる、ことあげせぬ、論理の最も実際的な適用であつた。家族主義は譬喩からの政治的所産であるが、この譬喩が又家族主義的原始化からの論理的所産なのである。(へちま鼻注:×××は伏字ですが、「天皇制」と読み起せることは明らか) 「・・・問題はここから、現代日本の家族主義に於ける原始化主義が、単に論理的でなくて社会的な場合にまで現れてゐる点に来る。事実、家族主義的・氏族主義的・民族主義的な敬神思想は、日本社会の政治的対象に他ならない。家族主義的神秘主義から来る宗教情緒は、もはや単なる個人の私事に帰着する情緒ではなくて、社会の家族主義的宗教制度に帰着しなくてはならないのである。 「この宗教的情緒と宗教制度とになつて現はれる家族主義的宗教は、原始化主義的宗教であり、即ち一種の原始宗教であつたのが、そのことから当然、之は一種のトーテミズムともなつて現はれる。・・・更に又之は一種のアニミズムともなつて現はれる。天地の生成化育は草木の生命霊魂と共に、農業中心主義と結びついた場合のアニミズムの信仰対象だと見ることが出来よう。―かうやつて、家族主義は、家庭から始めて国家に及び遂に天地の広きに施して悖らぬものとなるのである。 「・・・復古主義的反動の持つ矛盾の発生原因は併しかうだ。丁度資本主義といふ一つの歴史的段階が、資本主義自身を超歴史的な範疇と考へさせ、之を却つて無限の過去にまで遡及させるやうに、・・・復古主義が或る政治的必要に迫られる歴史的段階に立つてから初めて創案した『古来』といふ逆歴史的な範疇を、或る任意の(人によつてはマチマチだ)有限な過去にまで遡及させる、といふことに含まれてゐる喰い違いから、この矛盾は発生するのである。例えば復古主義の典拠である記紀自身の成立が・・・かうした関係を含む広義の『復古主義』に立つてゐるといふことを、復古の論理のために、復古の方法のために、記憶しなければならぬだらう。」 ――――――――(戸坂潤「復古現象の分析―家族主義のアナロジーに就いて」1935年) これは、戦前日本の軍国主義・ファシズムの背後にある家族主義的天皇制の論理を、えぐり出したものですが、ここでの戸坂の批判は、有事法制→改憲という流れに伴う国家主義的締め付けの背後にうごめく、「つくる会」的復古現象までも、射程に含んでいる、といえるかもしれません。また、北朝鮮拉致被害者についてのメディアの報道に溢れる、家族への肉親愛と国家への帰属意識とを素朴に連続させてしまう「国-家」観念も。いずれの背後にあるのも、「天皇制的なるもの」といえるでしょう。 あとさらに時代を遡りますが、明治後期に天皇制を批判した例外的人物として、毎日新聞記者でキリスト教社会主義者の木下尚江がいます。 ―――――――― 「其時我れ端なくも、母の膝の上にて耳にしたる幕末の一大事件、和宮関東降嫁の旧聞を思ひ出したのである―其頃は我母もまだ小さかつたのであるが、宮の御輿が中仙道を通行されたので、母も手を引かれて塩尻の宿場まで拝み(其頃の言葉で)に行った、で、小児心にも母の不思議に思つたのは、路傍の小さな石像や、無名無位の社祠など、いづれも藁や蓆で蔽い隠したことであつたとの話である、我また幼き胸に怪しと感じて、母に尋ねた、我母は斯く答へられた、活神様が御通りになるのに、名も無い神様など御目に触れるのは恐れ多いとの心配からであつたのだと、しかる後我母は尚ほ言葉を添へられたのである、――『むかしの天子様は神様であつたが、御一新以来人に御なり遊ばした、大した変化ではあるが、是れが本当であろう』――我は此の旧物語と新教育との間に何程の相違があるか、判らないので、倫理科の教授に其説明を求めた、驚くべき哉、教授は説明の代りに顔色を失つて戦慄した、只だ一言した『――そんなこと言ふと不敬に当る――』」 ――――――――(木下『良人の自白』1904年) 今の主要メディアの天皇報道は、ほとんどこの「倫理科の教授」並みですね(笑)。「不敬」という言葉が消えた代わりに、無言の圧力が支配しているわけです。 それにしても、あの言論の自由が全く存在しない時代に、勇気ある人がいました。 ちなみに、戸坂潤は、治安維持法違反で投獄、1945年8月(敗戦直前)長野刑務所で獄死。木下尚江は、1907年に突如、人生の苦悩に陥り、伊香保山中に引き篭もったことによって、1910年の大逆事件の難をかろうじて逃れることができたに過ぎません。 そんな危険もないご時世に、日本のメディアは何をやっているのか、、であります。そういえば、ご引用なさった辺見・チョムスキー対談の初出も、『PLAYBOY(月刊)』誌(笑)。現代日本のメディア状況を端的に示していますね。 |
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