24466 返信 百人斬りに三言目 URL ヒデ 2003/11/28 18:34
昭和12年11月31日より12月13日まで四回の「東京日日新聞」の「百人斬り」記事より、『向井敏明少尉と野田毅少尉が、中国の正規兵を戦場で、二人合わせて111人を斬った』等と考える人は、誰もいないでしょう。
実際問題として、戦場の戦闘行為で敵の正規兵、不正規兵を何人斬ろうと戦争犯罪(war crime)を構成しません。

中国の国防部戦犯裁判は、向井歩兵砲小隊長と野田副官をいかなる理由で起訴し、どのような証拠をもって死刑としたのかを見ておく必要があります。
南京事件資料集 2中国関係資料編 南京事件調査研究会・編訳(p360〜364)
の一部を抜粋引用します。
・・・以下抜粋し引用・・・
国防部戦犯裁判軍事法廷判決 主文
向井敏明・野田岩(野田毅)・田中軍吉は、戦争中捕虜および非戦闘員を共同で連続して虐殺をおこなった。よって各人、死刑に処すものとする。
事実
向井敏明・野田岩は戦争中日本軍第十六師団に所属し、両人とも少尉で、小隊長および副官であった。(一部略)民国二十六年十二月、南京侵攻作戦においてわが軍の頑強な抵抗にあったことへの恨みのあまり、計画的虐殺をおこない憤りを晴らした。(一部略)向井敏明と野田毅は紫金山山麓で殺人ゲームをおこない、鋭利な刃物を振り回し老若の別なく逢えば斬り殺した。その結果野田毅は一〇五人であったのに対し、向井敏明が一〇六人を殺して勝利した。(以下略)
理由
調査によれば本事件被告向井敏明および野田岩は、南京侵攻作戦において紫金山山麓で殺人ゲームとして捕虜および非戦闘員に対する虐殺競争をおこなった。その結果野田岩が一〇五人殺害したのに対し、向井敏明が一〇六人を殺害して勝利した事実は、当時南京に滞在していた外国人記者ティンパレー(H.J.Timperley)の著した『日軍暴行紀実』にすでに詳細に記述されている(谷壽夫戦犯裁判書類付属文書の己)。それだけではなく、それは極東国際軍事裁判法廷中国検察官事務所が捜査・入手した当時の『東京日日新聞』に、当被告らがどのように紫金山山麓で「百人斬り」競争をしたか、虐殺記録を超過達成したあとどのように二人が血のついた刀をかざして笑みをうかべて向かい合い勝敗を語っていたかが掲載されていることも一致している。ならびに「百人斬り競争の両将校」等の説明書きのある、当時被告らが各々凶器の刀を手に武勲を誇示している写真も上記の事実の証明を補強するものである。そのうえ南京大虐殺事件の既決犯谷壽の確定判決所載の内容を参照することもできる。
・ ・・以下引用終わり・・・

中国によれば、向井敏明および野田毅少尉は、『鋭利な刃物を振り回し老若の別なく逢えば斬り殺した。捕虜および非戦闘員に対する虐殺競争』により戦犯として処刑されたのです。その証拠は、当時南京に滞在していた外国人記者ティンパレー(H.J.Timperley)の著した『日軍暴行紀実』と『東京日日新聞』と『南京大虐殺事件の既決犯谷壽の確定判決所載の内容』であります。

ティンパレーに関しては、“「南京事件」の探求 その実像をもとめて 北村稔著 文春新書”や“南京「虐殺」研究の最前線平成十五年版 東中野修道編著 展転社 南京大虐殺三十万人説の成立―Timperleyの策謀を中心にー北村稔著”に詳細に書かれています。
中国国民党は国際宣伝処を発足させ、その機関の責任者曾虚白(1949年の中華人民共和国の成立後に台湾にわたり、中央通信社社長を務めた)の自伝より以下の引用があります。
「ティンパーリーは都合のよいことに、我々が上海で抗日国際宣伝処を展開していた時に上海の『抗戦委員会』に参加していた三人の重要人物のうちの一人であった。オーストラリア人である。(一部略)我々は秘密裏に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔をだすべきではなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわなければならないと決定した。ティンパーリーは理想的人選であった。かくして我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した。(中略)このあとティンパーリーはそのとうりにやり(中略)二つの書物は売れ行きのよい書物となり宣伝の目的を達した」

私が今見ている本は、「―実録・南京大虐殺―外国人の見た日本軍の暴行 ティンバーリィ原書 訳者不明 評伝社」であり、p191〜192 南京の「殺人競争」(Murder Raceはヒデの注)という表題がつけられています。
12月13日付「東京日日新聞」には、“南京入りまで“百人斬り”競争という珍競争をはじめた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌少尉“とあるのを、ティンパーリーは、”向井少尉と野田少尉は、中国人百人を殺害する競争をやったが“と斬殺の対象を巧妙にhundred Chinese(百人の中国人)にかえて記述しています。

戦意高揚を狙って報道されたはずの武勇伝が、敵を非難する戦時宣伝の材料として取り上げられ、二人の少尉の戦犯の証拠とされた、ということです。

「南京大虐殺のまぼろし 鈴木明著 文藝春秋社」のp82に上訴申弁書のなかに以下の記載があります。
・・・以下引用・・・
原判決は被告などの「百人斬競争」は当時南京に在りたるティンパーリー(原文では田伯烈)の著「日本軍暴行紀実」に鮮明に掲載しあるを以て証し得るものなりと
認めあるも、「日本軍暴行紀実」に掲載されある「百人斬競争」に関する部分は、日本新聞の報道に根拠せるものなり。
該書は本件関係書類として、貴法廷にもあり。復ねて参照するも難しとせず、すなわち、ティンパーリーの記述は明らかに南京に於いて目撃したるものに非ざること
言を俟たさるものなり。然るに、原判決の所謂「詳明に記載しあり」とは、如何なる根拠に依るものなりや、判知し得さるところなり。

況や新聞記事を証拠と為し得ざることは、己に民国十八年上字第三九二号の最高法院の判例にも明にされあり。其れは単に事実の参考に供するに足のみにして、唯一の罪証と為す能はざるものなり。尚犯罪事実は須く証拠に依って認定すへきものにして、此等は刑事訴訟法第二六八条に明かに規定せられあり。

其の所謂「証拠」とは、積極証拠を指して言うものなることは、己に司法院に於いて解釈せられたるところなり。而して貴法廷には、被告らの所属部隊と異なる兵団の部隊長たる谷壽夫の罪名認定を以て被告らに南京大屠殺に関する罪行ありと推定判断せるものなるも、斯ることの不可能なることは、些も疑義なきところなり。
・・・以下引用終わり・・・

「百人斬り」に関して、両少尉を戦犯として処刑した「その証拠の粗雑さ」は一体どうしたのでしょうか。多数の「証言」を得意の分野としている中国は、どうしたのでしょう。向井敏明少尉や野田毅少尉に「老若の別なく逢えば斬り殺された捕虜および非戦闘員」の目撃者、証言者、肉親、友人、軍人、上司、恋人等々1947年
12月4日の起訴状まで、にどうして一人もいないのでしょうか。
向井敏明少尉と野田毅少尉のご冥福を祈ります。