28080 返信 Re:水戸黄門/Re: 思いやりファシズム URL tpkn 2004/05/28 05:18
梶村さん、

> わたしは、確かにそれは難しいけれども、変ることはできる、また変らないと同じ破局を迎えるだけであるという意見です。
> もちろん、長い歴史に培われたものが一朝一夕に変るものだとは思いません。しかし、肝心な程度には変らなければ、またまたひどい目に遭うことは必然であると考えるのです。
> そこで、「何がどの程度に変るべきか、そしてそれはいかにして可能か」という議論が出てくれば生産的であると思っています。

おっしゃる通りです。つまり私は、梶村さんほか愚民論を言う人々はあまりにも「根本的に変るべき」と言い過ぎであり、なおかつその方法論を何も提示していないのではないか、と思うのです。

たとえばそのような根本的な変化を経験した人々はどういう人達かと考えてみたとき、果たしてそういう人々はいるのかどうか、疑問です。ハワイ人でさえ、完全にアメリカナイズされているわけではなく、ハワイ人独特の思考方法を残しているでしょうし、インディオもそうでしょう、アフリカン・アメリカンもそうです。インドネシア人やマレーシア人のほとんどがムスリムだからといって、彼らはアラブ人とはまるで違います。インドは高度な民主主義の発達した国ですが、それは西欧のものとはまた違っていますし、カースト制も社会的な機能を失っていません。

つまり、結局のところ、権利意識や法意識について、梶村さんのおっしゃるような根本的な変革が可能であったことは、歴史的に見て今の今まで一度もないか、あるいは民族そのものの絶滅と引き替えにしか不可能なのではないかという感じがします。これはたとえばアイヌの考え方が、今北海道で日本人として生活しているアイヌにどれぐらい受け継がれているかということを考えてみれば、なんらかの参考になるかもしれません。アイヌ人ほど完膚なきまでに文化を破壊されつくしてしまうと、日本人としての自分からアイヌを再発見するしか方法がなくなってしまいます。今アイヌが必死で後世に伝えようとしているものは、そういう文化的アイデンティティでしょう。


> 政治が利用してはいけないというのは、その通りです。しかし政治は徹底的に民衆の感情を利用しようとする本性を持っています。かつて埴谷雄高が「政治の本質は『やつは敵だ。敵を殺せ』である」と喝破しましたが、政治の本性はこの通りです。(たとえば、現在、イラク人はブッシュの政治にこの悪を骨身に滲みて感じているところです。)
> この政治の原罪とも言える悪を、いかに「文明化していくのか」というのが、人類史の開闢以来の大きな課題です。
> 現在のイラクの人々にとっては、この課題は文字通り、明日をも知れぬ焦眉の死活問題になっています。イラク人々は世界中の人々に代ってこの重荷を背負わされているのです。

「政治の原罪」と「文明化」の対比がよくわかりません。いわゆる「文明」、つまりブッシュが言うところのCivilizationとは、別の種類の人々にとっては悪でしかなかった、というのが、アメリカ大陸やアフリカ大陸が経験した歴史ではないかと捉えています。「文明」とは何かが、私にはよくわかりません。


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> わたしの近くにも幾人かのイラク人がいますが、拷問写真が出はじめてから、誇り高い彼らの心中を察すると、まともに話をすることに躊躇せざるを得ません。正真の殺意を喚起するようなことはしたくないからです。
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> このような、人間の尊厳を否定する、人間の残虐性を徹底的に拒否するところから「権利意識」は生まれてくるのだと、わたしは思います。これは、イラク人であれ日本人であれ同じだと思います。

これは大変疑問です。その考え方は比較的新しいものであって、いわば「権利意識」のバージョンアップのようなものではないかと思うのです。西欧世界が過去に行った植民地支配、大規模な奴隷制度等は、すべて「権利意識」が行わせたものでしょう? いわば「権利意識」自体が、世界の他の人々にとっては西欧の原罪と映っているのではないでしょうか。なぜなら今のアメリカ人がイラク人捕虜を人間扱いしていないのと同様、ほんの100年ほど前まで、南アフリカでは10年前まで、西欧世界の人々は有色人種を人間扱いしていませんでした。そしてイラクやアフガニスタンでは、今なお同じです。その事実が、梶村さんのおっしゃる《人間の尊厳を否定する、人間の残虐性を徹底的に拒否するところから「権利意識」は生まれてくる》を否定していると思います。「人間(human)」とは、誰を指すのか、それは誰が決めるのかということです。

> おそらく、高遠さんは共感力豊かなひとであり、今井君は想像力豊かな若者に違いないと思っています。人間の尊厳を否定する政治の悪に対する彼らの怒りを、逆にいえば虐げられている人々に対する彼らの共感を封じ込めようとする行為こそ、徹底的に批判されてしかるべきです。

おっしゃる通りです。しかし、

> 人間の尊厳を命を懸けても擁護しようという意識=人権意識が、日本人の多数に「微塵ほど」でもあれば、バッシングは起こらなかったでしょう。

いつのまにか「権利」が「人権」に変わっていますね。人権意識の欠如ということでいえば、それは日本人に限らず、アメリカ人、フランス人、イスラエル人、その他すべての人々に言えることでしょう。そして人権の重みも、相変わらず世界によってまちまちです。だからこそ「人権」のよりどころとなる「権利」について、相対的に考える必要があると感じます。

> 「骨がらみまでまでいっている」のは、原文を読んで下さればお分かりになるでしょうが、利用するほうではなくて、それ以前に、されるほうがそうなってしまっていると堀田は言っています。
> それほど、深刻だということです。
>
> いずれにせよ、それを「とりあえずは肯定したうえで」というよりは、これは「事実として否定できない」と言うべきでしょう。わたしもそう思います。

そうですね。「肯定」というのは違っていました。問題は、事実として否定できず、現前と存在しているものを、「悪」と捉えるかどうかです。これを悪ととらえて捨て去ろうとするのはひとつの方法ですが、何度も言っているように、我々が善と考え美徳と考えていることも、同じ心情から発しているわけです。ちまたによく聞かれる「権利ばかり主張して…」という愚痴、批判は、そのことに対する庶民からの拒否反応でしょう。

> ところが、ここから意見が分かれるのだと思いますが、わたしは、この「事実として否定できない心情」をすこしずつでも変えないかぎり、日本の社会はお先真っ暗だと考えるのです。権力に歯止めをかける権利のための闘争が失われた社会は、それが何処のものであれ、自滅するか、外部から破滅さされるかのいずれかであることに例外はありません。
> いつまでも、水戸黄門の出現を待っているようなことでは、ダメですね。葵の印籠が出てくる前に、自分たちで悪代官を成敗する市民にならなければならないのです。ブッシュのそれのようなものでない本物の普遍的人権の要求を印籠に替えて。

上記のように、「権利」自体が普遍ではありませんので、今の段階で普遍的人権というものが想定できません。それから「水戸黄門の出現を待っている」ような人も、実際には日本にもあまりいないでしょう。優秀な政治的リーダーを求めるという意味であれば、世界中どこでも同じでしょう。

> 工藤さんの批判に関しては、七〇年前の2・26事件当時まで逆登らなければなりません、それをしようとしたのですが、ごらんのとおりでした。
> 残念ながら彼は、独特な六八年世代の左翼のアジテショーンのリズムで人情右翼のモノローグで、赤い布につっかかるスペインの猛牛の真似しかできないので、今の、わたしには手に負えません。それはそれで面白いのですが。

ごらんのとおりと言われても、私には梶村さんが論争を放棄しているだけにしか見えません。言い換えると、工藤さんの発言のほうにより説得力があり、梶村さんは工藤さんに負けているということです。モノローグであろうがなんであろうが、批判すべきものを批判しないで何が権利の闘争でしょうか。工藤さんが梶村さんの手に負えないのであれば、日本人のほとんども、梶村さんの手に余るでしょう。小林さんが指摘しているのもそういうことだと思います。