28251 | 返信 | Re:清朝末期と日本の幕末 | URL | 武蔵の一住民 | 2004/06/07 23:35 | |
小林さんこんばんは。 私としては、まず、前回の投稿での小林さんへの質問にあるように、 戦後歴史学への小林さんの罵倒の理由を、具体的にお聞かせ 願いたいのですが。 お答えになりたくないのなら、それでもかまわないのですが、その場合、 小林さんは井沢元彦氏などと同類だと言わざるをえません。 > 山さん 武蔵の一住民さん こんにちは > 最近見ませんがどうしましたか? 元気出してください。 > Inti-solさんは私とは議論したくない様子ですので、ピンチヒッターで出てきてくださいよ。 私よりもずっと近代史に詳しい方が、ここにはたくさんおられるようです から、私が出る意味などないと思いますが、少しだけ…。 > 例えば1851年に始まる太平天国の乱を知っているのでしょうか? > > この乱は反乱軍が中国人口の約半分(2億人)にまで膨れ上がり、南京を首都に定め、1864年まで続いたものです。 太平天国の影響力の及んだ地域は、当時の中国でもっとも豊かな ところも含まれていましたから、その範囲内の人口はかなりの数に なったでしょうが、それでも、反乱軍が2億人にまで膨れ上がった、 というのは言いすぎではないでしょうか? > この十年間に中国の人口は4億3千万人から約半減して、2億6千万人になった大動乱だったのです。 > この乱の10年間でなんと1億7千万人が犠牲になったのです。 この数字、わりとよく見かけるもので、何らかの根拠があるよう ですが、中国の「人口激減」は、多くの場合、戸籍人口の激減 である、というのは、中国史の常識ではないでしょうか? もっとも、ここから、清朝の支配力の低下を推測できますし、 さらに、治安の悪化を示唆することも可能ではありますが。 > その首都の南京が陥落する時に数百万人が殺されたと言われています。 これはさすがにちょっと…。 何か根拠となる史料や論考はあるのでしょうか? > 「清朝末期に西洋諸国が侵略を行って、様々な無法なことをしたのは、王朝末期の混乱が原因、つまり中国自身の問題だ。」と私が主張したところ、「日本も幕末の動乱だったから条件は同じだ。」と言う反論がありました。 二度にわたる長州戦争や戊辰戦争があり、幕府側も、兵農分離体制を 放棄して百姓をも兵として動員しようとしましたから(この企図はけっきょく 失敗におわりましたが)、たとえ同時代の中国よりも治安が良かったとしても、 日本列島規模での大規模な長期争乱に突入していたという可能性も、 けっして夢想とはいえないでしょう。 そうすると、列強に付け入る隙を与え、拠点となる港町の割譲、列強による さらなる利権争奪戦となった可能性はあります。 日本は、植民地化が困難という意味では、中国よりも条件は恵まれていた とは思いますが(清朝が少なからぬ漢族に異民族視されていたというのは、 清朝自身に原因があるとはいえ、中国にとって不運ともいえます)、日本も、 結果論から見るほどには安泰とは言えないでしょう。 その日本が植民地化されなかった要因は、inti-solさんが指摘されて いますが、根本的な要因は、日本が中国ほどには魅力のある地域では なかった、ということであり、朝鮮に列強の本格的な圧力が加わるのが 遅れたのも、同様の理由からでしょう。 |
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