28493 返信 「それは政治的主張だ」と論難する政治性 URL クマ 2004/06/21 14:34

 クマです。
 田中荘の議論ですが、文体を問答的にして、こちらに移転します。相手は鈴木康さん。

> >  状況によっては「人を殺してはいけない」という主張でも「政治的主張」だと非難されるわけなんだけども、これと同じことをおっちゃんはしていないか?

>  「人を殺してはいけない」という主張と「日の丸・君が代の強制はよくない」という主張を同列に論じることはできません。なぜならば、前者は圧倒的多数により支持されている主張であるのに対して後者はそうではないからです。

 だから、私はそこを聞いているんですよ。
 今の世の中において「人を殺してはいけない」は絶対的に「ただしい」主張ですよね?しかしそれは戦時中の日本では公には口にできない言葉であり、少数の支持しか得られなかった、少なくとも「上の意向」にしたがう人間からは支持は得られなかっただろうということも分かりますよね?

 んで、鈴木さんは現時点においては「日の丸君が代の強制はよくない」という主張は圧倒的多数によって支持されているとはいえない主張だというが、これは数年前までは圧倒的多数、少なくとも国会で「起立しない自由もある」と自民党が言っていた程度には多数の支持があったわけです。

 「多数の支持」ではない、これは実は「上からの支持」なんだけども、それがなくなった途端に「それは政治的だ」と論難しはじめる、この一貫性のなさ、この主体的モラルのなさ、その奴隷根性を私は批判しております。

> なくとも日本において「人を殺してはいけない」という主張が「政治的主張」だとして非難される状況というのは、私にはきわめて考えにくいです。

 自衛隊員がイラクのレジスタンスを殺した瞬間から、その言葉は「政治的主張」になりますよ。

>  今回のPTA会長の挨拶の中での、「日の丸・君が代の強制はよくない」という私見開陳に対して寄せられた反発の激しさを見れば、日の丸・君が代の強制や石原都知事のやり方を容認している層がかなりあることは明らかです。

 上の意向に忠実な人間が多いということが一つ、それからおっちゃんのように、単に「跳ね上がり」、出る釘を打ちたくなる根性がしみついている人間が多いだけで、別に強制そのものを容認しているわけではないと、これは期待的観測もふくめてだけれども、そう思いますがね。実際、おっちゃん、鈴木さん、ひらめすらも強制そのものを認めているわけではない。

>  「政治的主張」として非難されるかどうかはおおむね、その主張が社会の成員から受け入れられているかどうかで決まります。

 そうですよ。だから世のなかが右に行けば、昨日までは中立的意見と思われたものも左の意見だと思われる。たとえば今は「憲法を守ろう」も左翼の意見となっていますが、これは本来的には保守の意見であります。

 で、自分は中立的な立場にいるかのような顔で、「それは政治的だ」と論難することの政治性を私は問うているのですが?

> 「非難されることが明らかな主張」をPTA会長挨拶の中で開陳するならば、それなりの準備がいります。話せばすぐわかるほど、石原慎太郎を圧勝させた都民は甘くないわけです。そこのところを考えずに突っ走ってしかも参ってしまった以上、件のPTA会長を非難せざるを得ません。

 彼が準備不足で参ったから批判せざるをえない?
 ナチとたたかって非難を受けながら敗北した「白バラ」も、あるいは良心的徴兵拒否を貫いて弾圧された戦前のクリスチャンも「準備不足」だったのかね?最終的な決断を迫られるときというのは、周到に根回しして準備する期間なんてないのが普通だよ。

 鈴木が言っていることは、要するに「負けたから非難せざるをえない」ということでしかない。強制への抵抗というのは、そもそも権力のある側しか「強制」はできないわけで、最初から99%負ける条件にあるわけです。そういう状況を無視して、「負けたから非難せざるをえない」ってのは、これは要するに闘うなといってるも同然なんですね。

 傍観者の論理には心底うんざりだ。鈴木自身の「準備」はいったいいつ整うのか?