28552 | 返信 | Re:民主主義社会のモラルについて(Re:「君が代」強制批判の…) | URL | tpkn | 2004/06/23 18:48 | |
鈴木さん、 > 殺人にしても現在程度で済んでいるのは重刑の抑止力があるからで、多くの人々が「殺してはいけない」に同意しているかどうかはわかりません。 わかりますよ。もし多くの人々が「殺してもよい」と考えているなら、刑罰の軽重はともかく、殺人罪という罪状そのものが法律からなくなっているでしょう。また、そうしなければならないはずです。 > 重刑の抑止力がなくなればどうなるか、これは実験するわけにはいきませんが殺人その他の凶悪犯が激増するのは間違いないでしょう。 重刑の抑止力がなくなった状態というのは、たとえば政治の混乱のために無政府状態になった国や都市などを想定してみればよいのではないでしょうか。少し前の朝日新聞の連載に銃社会をテーマにしたものがあって、ソマリアのモガディシオがまさに「万人の万人に対する戦い」の様相を呈していることがリポートされておりました。まさに凶悪事件が激増していましたが、それって別にソマリア人が殺人鬼になったのとは違いますよ。単に戦争状態なだけです。 > > ある人が言論の自由や思想信条の自由に基づき正当な権利を行使していることを「モラルに反する」と考える社会であっては、民主主義が正常に機能しないからです。ましてこの問題は、「殺人」と違って、「なぜそうなのか」ということを明確に言うことができます。 > > いくら明確に言えたところで、他者がそれを受け入れてくれる保証はどこにもありません。 それがどうかしたのでしょうか? なぜか反論が「多くの人々が同意しているかどうかはわかりません」「他者がそれを受け入れてくれる保証はどこにもありません」のようなものばかりですが、それ、全然反論になってないですよ。「何が正義に近いか」を論ずるのに、「他者がそれを受け入れてくれる保証」など関係ないでしょう。多くの人に受け入れられるべき考えは何かということを議論しているのですから。たとえば鈴木さんが言っていることに対して、「他者がそれを受け入れてくれる保証はどこにもありません」などという反論をして何か意味ありますか? そんなものは大前提でしょうが。それとも鈴木さんは、誰かに「保証」してもらわないと、意見も言えないのでしょうか? > ましてこの問題に関して刑罰を振りかざすわけにはいきません。 ですから、モラルの問題だと申し上げております。 > そもそも民主主義とは、民主主義を正常に機能させない思想傾向を持った成員の存在をも認めなければならないのです。 えーと。それこそが私が言っている「民主主義社会のモラル」なんですが…(笑)。反論のための反論に堕して、自家撞着に陥っていることにお気づきでしょうか? それ、私が書いた《ある人が言論の自由や思想信条の自由に基づき正当な権利を行使していることを「モラルに反する」と考える社会であってはならない》と全く同じ意味でしょう? 内容的には不当だと思われる考えを持った《成員の存在をも認めなければならない》という共通了解が成立するためには、そうした考えを述べること自体を「モラルに反する」と感じる風土があっては無理です(考えの内容に関する評価は別です。念のため)。結局のところ、鈴木さんは「受け入れる」「同意する」「認める」という言葉を、御自身の都合のよいように使い分けているだけですね。だって、「認めなければならない」からといって、「多くの人々がそれを認めている(=同意している=受け入れている)保証はどこにもない」(笑)のですから。 > いやいや、一緒に考える方がおかしいです。「こんなの」と「こんなのの子供」がモラルを共有するという保証はどこにもありません。たとえばアメリカの小学校の校長が「犯罪者の子どもが学校に来るようなことでは、学校内犯罪が減るわけはない」とでも言ったらどうなりますか?えらい騒ぎになります。 例示がまるで違っています。「犯罪を容認するような考え方を持った親に育てられた子供ばかりであれば、学校内で犯罪が起こったとしても皆それを容認するだろう」ということです。なぜなら、それを「犯罪だ」と判断する基準を持たないからです。またここでも「モラルを共有するという保証はどこにもありません」などと反論にならない反論をしていますが、「共有しない保証」もありません。むしろ、モラルというものが個人の思想ではなく社会的な関係の中でのみ機能するものである以上、共有する可能性のほうが共有しない可能性よりもはるかに高いと考えるのが自然でしょう。 前回の質問にお答えいただいてないので、もう一度お尋ねします。鈴木さんは、お子さんに物事を善悪を教えないのですか? 「モラルを共有するという保証がどこにも」ないからこそ、教えるのではないでしょうか。犯罪を犯すことそれ自体と、それをとりまく状況としてのモラルを混同してはいけないでしょう。 さて、クマさんとのやりとりですが。 > > いえ、民主主義社会において思想良心の自由を守ることは基本的に正しいのであり、それを抑圧することは誤っています。唯一、私がアプリオリに許容できない「思想」があるとすれば、それは思想良心の自由を認めない「思想」です。(クマ) >(中略) > 「心の強制改造はできない」というのが貴重な20世紀の教訓であったと私は考えます。思想良心の自由を認めない「思想」を封殺するよりは表現させてたたいた方がよい、というよりもそうせざるを得ないわけです。明らかな虚偽やデマならともかく、言論の自由に反する主張の開陳までも阻止しようとするようなことでは言論の自由がやせ細ってしまいます。これは、反政府的言論を抑圧している国、たとえば中国の言論事情を見れば容易にわかるでしょう。日本に目を向ければ、最近の文春差し止めを巡る騒動から得られた教訓は、「雑草のような言論であろうともむやみに刈り取ることは社会の利益にならない」ということだったと思います。(鈴木) ある思想を許容するかどうかは、その思想に対して正邪の判断を下すことであり、「開陳までも阻止しようとする」ことではありません。このへんを混同するなと何回言われても同じことをやっているから鈴木さんはだめなのですね。これ、典型的な「権利擁護のための権利擁護」で、単に正邪の判断を放棄していちゃもんをつけてるだけととられてもしかたないでしょう。その証拠に、完全なる一般論になっています(笑)。 「他者がそれを受け入れてくれる保証はどこにもありません」 「多くの人々が同意しているかどうかはわかりません」 「多くの人々が「殺してはいけない」に同意しているかどうかはわかりません」 「こんなの」と「こんなのの子供」がモラルを共有するという保証はどこにもありません。」 よくもまあこれだけ並べたものですが(笑)、自分の判断や意見を述べることを避け、そもそも存在しえない「保証」を御自身の反論のよりどころにしようとするあたり、鈴木さんは非常にブサヨっぽいメンタリティをお持ちの方であることがわかります。 「多くの人々」はともかく、あなたはどう考えるんだ? あなたの言うことにはその「保証」とやらがあるのかい?ってことですね。自分を埒外においたお気楽な他者批判は、単なる揚げ足取りであります。 |
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