28580 | 返信 | Re:薩英戦争と下関戦争 | URL | 秀里 | 2004/06/25 08:12 | |
> 次は、薩英戦争の翌年、1864年の下関戦争です。 > 薩摩藩と並んで攘夷論の急先鋒だった長州藩が、攘夷を行動に移し、下関の砲台から関門海峡を通過する外国船を次々と砲撃したのが戦争の発端となりました。 > これに対して、イギリスのオルコック公使が主導してイギリス、フランス、米国、オランダの4カ国の連合艦隊が報復攻撃を行ったものです。 > 一見すると、関門海峡を通過する外国船を無差別に砲撃するという無法を行った長州藩が悪いように感じます。いや、よく考えても、長州藩に非があることは確かなのです。ただし、もっとよく考えると、実は長州藩が砲撃した外国船の内訳は、米国・フランス各2隻、オランダ1隻で、イギリスの艦船は砲撃されていないのです。それにも関わらずイギリスが主導して報復攻撃というのはいささか不可解なことで、長州藩の暴走を戦争に利用したと見られても仕方がないでしょう。 > このときの戦後交渉で、イギリスが彦島の租借を持ちだしたのに対して、上海に渡航した経験を持ち、中国の租借地の実態を知っていた高杉晋作が、適当に煙に巻いて租借地化を逃れたと言われています。 > > この二つの戦争を見る限り、イギリスが日本に対して、少なくとも日本の一部に対して帝国主義的な野心を持っていたことはほぼ確実であるように私には思えます。 馬関戦争(四国連合艦隊下関砲撃事件)に関してははたしてどうでしょう。 ほとんどオールコックの独断による報復ではないでしょうか。 この行為をイギリス政府はよろこばず、ラッセル外相の承認も得られなかった。しかも、このことでオールコックは公使を解任され、本国に召還されている。 後に承認されることになるけれども、賠償要求はこの事件を利用したモノにすぎないのでは無かろうか。 この事件は列国公使中の主導的立場となったオールコックが、その立場上本国政府の承認を得ずに行ってしまった行為と見ることも出来るのですが。 |
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