28708 返信 Re:明治維新は必要なかった。←そうは思いません。 URL 臥李夷漢 2004/07/03 06:11
> その後の戦争は、全て薩長の権力欲がさせた、クーデターに過ぎない、と思います。

権力欲以上に恨みが先行している思います。クーデターに関しては同感です。

> 坂本竜馬、勝海舟、などの考えに従えば、公家、諸侯会議によって、日本は充分近代西洋に対抗できる国になれた、と思います。

諸侯会議の議長は基本的には徳川主導の専制的な議会形態なのでこれに関しては承服しかねます。
全国規模での政治参画で諸藩に参加権を与えたに過ぎません。
むしろ徳川家の狙いがそこにある訳ですから。

> 諸侯会議による政治であれば、現在よりももっと地方分権的な日本になったであろうし、内戦も起こらず、日清・日露以下の戦争もしなかった可能性がある。

可能性に関しては主観ですのであまり言いたくはないですが極論すぎます。

> そもそも幕末の黒船対応は今から考えればナカナカの交渉をしたようで、当時としては最善の条約が締結できたと思われます。

外交権を行使できない幕府の場当たり的な交渉がナカナカの物とは言えません。
最善と言いますがペリーとの交渉はむしろ捕鯨問題での開港要求が主な目的なので実際の二国間の
通商的な取り決めに関してはハリスとの交渉を引き合いに出すべきです。

> 西洋文化への対応も、学校を作ったり、様々な面で幕府は充分努力をし、成果も挙げていました。文明開化は幕末に相当進んでいたと思います。

既得権益の武士社会から脱却は行えなかった幕府の限界点についてはどう思われますか?
幕府の対応は一部を除いて遅きに失した感があります。
教育制度に関しては民間の間での発展であって幕府の功績ではないです。
むしろ現代的な教育制度の根幹は長州藩の藩校制度の影響が大きいと思いますが。
文明開化が進んでいた根拠は何んでしょうか?
幕末に関しては西洋の技術に関して民間で浸透したものなどありませんし
幕府もインフラ整備を行っている記述はどこにもありませんが?
官民を巻き込んだ殖産工業レベルの改革は幕末でも十分に可能ですが行っていたという記述は無いです。

> 「幕府ではこの世界的難局に対応できない。」などということは実際は何も有りません。

たしかに優秀な人材は多いと思いますが、中世的価値観を捨てる事が出来ない制度改革しか提示できない
幕府には限界があると思います。
遅かれ早かれ薩長と仲違いするのは目に見えてます。

> そもそも維新の大義の一つである、攘夷については、全くの方便であって、政権をとるやすぐに転向したのですから、公約違反も良い所です。

薩摩は薩英戦争、長州は馬関戦争後に攘夷論は捨て去ってますがそれに関しては無視ですか?
王政復古の大号令でクーデーターには成功しましたが攘夷決行を掲げてはいませんよ。

> 尊王については、自分たちに都合の悪い天皇を暗殺する程度(孝明天皇)の醜い尊王思想であり、権力集中のために利用したに違いないものです。

天皇の暗殺については根拠が無いので何とも言えませんが。
むしろ権力の一元化する事で国体を纏めようと言う意図は薩長以外でも出てますよ。
それと天皇家は敬われてはいますが権力闘争では常に利用され続けています。
薩長のみがそれを利用していたと言う論拠には無理があります。

> 大政奉還によって、充分伝統を尊重した尊王体制に出来たのですから、この尊王の大義も意味はありません。

尊王は神輿でしか無いですので近代国家の成立という点だけで言えば
最終的には徳川中心の政治形態で幕藩体制は維持される政治機構ですが...。
議会政治の概念も民権主義も弾圧される恐れは十分にありますが?
幕府はあくまで近代的な封建体制維持を目指したので民主的国家創設と言う意図はないですよ。

> そもそも明治維新は何かの理想を掲げて作り上げたものではありません。
> 維新の設計図を作った人は居ないし、設計図も存在しませんでした。

横井小楠や由利公正の政治思想は無視ですか?
彼らの政治思想が後の明治政府のモデルになってますが。
また幕府の諸候会議の内容も彼らの影響を受けてますが。
また龍馬も由利公正から影響受けてますが...
それでも設計者や設計図は無いという事ですか?

> しいて言えば坂本竜馬の設計図が一番正当性のあるものだったと思うのですが、彼の死後、その意思に反した、内戦・クーデターが起こってしまいました。

上にも書きましたが龍馬をそこまで持ち上げる根拠は?
王政復古の大号令は龍馬の与り知らない所で秘密裏に計画されてますが?
また龍馬暗殺に関しても薩長の陰謀説を前提にしないとその発言は出来ませんが
それに関するソースはありますか?

> このように大義のないクーデターから国民の目をそらすために、海外との戦争が必要になった、というのが私の日清・日露戦争原因論です。

日清戦争は朝鮮権益での清との対立が原因ですので国民の目を逸らす為の戦争?
かなり極端な発想としか言いようがありません。
征韓論を根拠にそれを言っているのであれば大きな誤りだと思います。
不平士族対策の一環である征韓論は北海道開発の屯田兵の政策にシフトしてますよ。
その後の朝鮮との関係は武力を背景に威圧し開国させ通商条約を締結させるなど
西欧諸国の帝国主義的支配の方法をそっくりまねてます。
征韓論とその後の明治政府の朝鮮政策は似て非なる物です。
また日清戦争開戦のきっかけは朝鮮の国内の権力闘争に大国の介入という形での開戦です。
日清戦争時、西南戦争後の自由民権運動により太政官制から議会制になってますし。
政治政策等で世論か色々言われてはいたとは思いますが
国内の不平から目を逸らせる意図など当時の明治政府にはありませんよ。
そこまで国が追いつめられていたと言う根拠もありません。
日露戦争は露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約により、バルカン半島への南下政策に一歩前進したロシアが、ビスマルク主催のベルリン会議でロシア有利なサン・ステファノ条約を破棄してベルリン条約を締結
これによりバルカンへの南下を断念しロシアは進出の矛先を極東に向けたのがそもそもの原因
日本は下関条約を締結したものの三国干渉で遼東半島を清に返還し国民の対露感情が非常に悪化してます。
しかし日英同盟締結前までは日本はロシアとの戦争は考えてはいませんよ。
大津事件の明治政府の対応がそれを如実に物語っています。
またロシアが極東を南下すると、自国の中国権益と衝突すると考えたイギリスの思惑により日英同盟を締結し
イギリスのバックアップを得た日本はここで初めて対露戦を決意するに至ってます。
以上の理由からこれも国民の不満を外に向ける為とは言いがたいです。

結論として明治維新は必然であったと私は思います。
もし可能性で歴史のifを述べるなら徳川による諸候会議が開かれても結局の所
内戦は避けられないと言うのが私の見解です。
薩長の徳川への恨みはそんな小手先の政策転換で変わる物ではないです。
薩摩は木曽川の件など辛酸を舐めさせられてますし。
長州はそれ以前から尊王思想が強く徳川への忠義心などありません。
両藩共に将軍の威光の元で仕方なくしたがっているだけですから。
将軍に逆らう事は帝への反逆でもありますし。
まぁ人それぞれの主観がありますから私の説が必ずしも正論であるとは思いませんが...