28715 | 返信 | Re:明治維新は必要なかった。←そうは思いません。 | URL | にゃにゃにゃにゃにゃ | 2004/07/03 22:41 | |
横レスです。 > 日露戦争は露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約により、バルカン半島への南下政策に一歩前進したロシアが、ビスマルク主催のベルリン会議でロシア有利なサン・ステファノ条約を破棄してベルリン条約を締結 > これによりバルカンへの南下を断念しロシアは進出の矛先を極東に向けたのがそもそもの原因 > 日本は下関条約を締結したものの三国干渉で遼東半島を清に返還し国民の対露感情が非常に悪化してます。 > しかし日英同盟締結前までは日本はロシアとの戦争は考えてはいませんよ。 > 大津事件の明治政府の対応がそれを如実に物語っています。 > またロシアが極東を南下すると、自国の中国権益と衝突すると考えたイギリスの思惑により日英同盟を締結し > イギリスのバックアップを得た日本はここで初めて対露戦を決意するに至ってます。 > 以上の理由からこれも国民の不満を外に向ける為とは言いがたいです。 今年は、日露戦争から100年目で、歴史読本の2004年4月号は「日露戦争100年目の真実」という特集をしています。参考資料として、紹介します。 ロシアですけれど、サン・ステファノ条約破棄でバルカンへの南下をあきらめたというわけではないことは、これ以降ロシアがオーストリアとの確執を深め、ドイツ・オーストリア・ロシアの三帝同盟が結局崩壊、「バルカン半島は『ポンメルン擲弾兵の骨一つ』にも値しないもの」と考えていたビスマルクのドイツはロシアと再保障条約を結ぶが、ウィルヘルム二世の即位後はドイツがオーストリアとの同盟を優先させた結果として起こったドイツ・ロシアの再保障条約破棄によって、ロシアがフランスと露仏同盟を結ぶ、といった一連の経緯からもはっきりしてくるでしょう。 また、ロシアの進出は中央アジア・ペルシア・アフガニスタン方面に向かっても行なわれ、ロシアとイギリスの確執を激化させていたのですから、ロシアとしては極東方面に膨大な兵力を送って争いを引き起こすということを、しばらくは望んでいなかったことは事実です。むろん、ロシアに比べて日本の軍事が弱いことを知る日本の指導者たちも、ロシアと戦う意思はなく、ロシアとの協調路線をとります。 三国干渉にはじまる日露の対立の激化は、義和団事件後もロシアが中国東北部(「満州」のこと)に大軍を派遣し、そこを占領したことからはじまったといってよいでしょう。 これに抗議したのが日本とアメリカ・イギリスですが、米英両国は戦争に訴えてまで抗議を貫くことは考えていなかった。イギリスが日英同盟に踏み切ったのは、ボーア戦争による経済的負担で、中国における自国の経済権益を単独で擁護することが困難になったため、権益確保に都合のよい相手として日本を選んだものでしかなかったわけです。で、この同盟が直ちに戦争につながったのかというと、これは決してそうではなく、日本はこの同盟の力を背景にロシアに中国東北部からの撤兵を強く要求し、ロシアも撤兵協約を清と結んで、第一期の撤兵を実施するという形で、日本の要求に応じてはいた。だが、ロシア内部の権力争いで第二期撤兵を実施せず、日露の対立が激化。朝鮮半島と中国東北部をめぐる日露のたび重なる交渉が成功せず、かくて開戦となったわけだが、開戦当時ロシア側は開戦のための本格的な準備がなされておらず、日本側の攻撃を受けると苦戦を強いられることとなったようです。日本はロシアが開戦準備をしており、日露交渉におけるロシア側のたび重なる回答の遅れを、シベリア鉄道の完成の時間を得るためと判断していたが、現実にはロシア側は皇后の病気や極東問題での非効率な意思決定のために回答が遅れたもののようです。 > 結論として明治維新は必然であったと私は思います。 > もし可能性で歴史のifを述べるなら徳川による諸候会議が開かれても結局の所 > 内戦は避けられないと言うのが私の見解です。 > 薩長の徳川への恨みはそんな小手先の政策転換で変わる物ではないです。 > 薩摩は木曽川の件など辛酸を舐めさせられてますし。 > 長州はそれ以前から尊王思想が強く徳川への忠義心などありません。 > 両藩共に将軍の威光の元で仕方なくしたがっているだけですから。 > 将軍に逆らう事は帝への反逆でもありますし。 > まぁ人それぞれの主観がありますから私の説が必ずしも正論であるとは思いませんが... 毛利・島津・上杉・佐竹・秋田の五大名は関が原では西軍に組みしていたもので、そのうち毛利と島津が討幕の中心となり、佐竹と秋田は奥羽越列藩同盟を最初に裏切って薩長側に寝返ったわけですね。有名な話が毛利家では関ヶ原の恨みを忘れず、年賀の挨拶では、筆頭家老が「今年は(挙兵は)どうでしょう?」みたいなことを毛利家当主に訊ね、当主は「まだまだじゃ」と返すことが恒例になっていたという件。面白いのは、上杉だけは奥羽越列藩同盟の中心として、薩長に抗戦したが、これは幕府ではなく、会津藩への恩義が動機。 また、毛利の尊王思想は元就に始まり、それまで大内家を頼りにしていた朝廷が、大内義隆への下克上を行なって、そのうえ山口に亡命していた公家を大量に殺戮した陶晴賢を元就が滅ぼしたのを賞賛し、大内家の後継者として毛利家を認め、大内義隆の代わりに朝廷に尽くすよう元就にわざわざ依頼してきたのを、もともとは安芸の一国人の出自にすぎなかった元就が歓迎したことから始まったもの。 薩摩は、木曽川の件の恨みはあったでしょうけど、関が原では西軍にありながら、唯一減封を経験しておらず、それほど恨みは強くなかったのでは? 島津久光は自分が将軍になれると思っていたという話があり、むしろ野望のほうが大きな動機だったのでは? |
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