28979 返信 Re:戦死の責任を覆い隠す「感謝」 URL なな 2004/07/24 02:49
帽子屋さん

レスをいただいたのに返答がちょっと遅くなってしまいました。ご容赦ください。

> 歴史的に見て、日本での宗教(仏教)は、エタ・ヒニンには差別戒名がつけられていたと聞いておりますが、選別してしまう思想は基本的にありません、とは何を根拠におっしゃられているのでしょうか?。よろしければ、ご教示頂きたく存じます。

実は、先の投稿で「そもそも、宗教(仏教)では生前の行為(業)や立場、たとえば兵士として前線で戦ったのか、市井の市民であったかなどによって祈りや供養の対象である死者(仏)を選別してしまうような発想は基本的にはありません。」書いた時に、ひょっとしたら戒名や法名を引き合いに出した反論があるかもしれないという予想をしておりましたが、さっそく帽子屋さんからいただきました^^;

たしかに、日本の仏教の歴史を見れば、おっしゃるような寺院・僧侶による戒名の位づけが葬儀代や布施といった金銭の額で差別化されたり、故人の権威づけのために檀家側からそれが逆利用されてきたなどの事実は歴然とあるでしょうね。
ただ、言わせてもらえば、葬式仏教と非難されるほどに寺院や僧侶の世俗化が進む中で、仏教本来の教えにはなかった故人に戒名や法名をつけるという習慣・制度が生まれてきたわけです。そして、戒名に対する現代日本人の意識というものを考えた場合、戒名の位づけの高低によって故人に対する哀悼の念や冥福を祈る気持ちが左右されるというような実態はほとんどないと考えますし、「人間、仏となれば皆同じ」という仏教本来の平等主義的な考え方は日本人の中に、深いとは言えないかもしれませんが、それなりに広く浸透しているとも思うわけです。そのような検討も含んで「死者(仏)を選別してしまうような発想は(仏教には)基本的にはありません」と書いたわけです。

> 「選別しない発想」そのものこそ、宗教でいえば近代になって入ってきたキリスト教的なものの考え方であり、政治的にいえばそれこそ、「国家のために死んだ人は平等」として戦死者の慰霊を推し進める、なな様の批判する国民国家そのものだったのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?。というか、そのような幻想なくして、国家は、自国民を兵隊に動員などできはしないでしょう。

キリスト教については詳しくありませんがその本来的な考え方(博愛、平等主義)は仏教のそれと同じように「選別しない発想」をもっていると思います。しかし、キリスト教(会)も仏教諸宗派の寺院が世俗化し権威主義化する道をたどったのと同じような歴史を持っていると言えるでしょう。

「戦死者の慰霊を推し進める国民国家」の思想というのは、それこそ「国家のために死んだ人は平等」という名のもとに進めらてきた靖国神社という国家神道に集約されていたと思いますが、そこでは国のために戦い戦死した人にだけ「英霊」という「特別待遇」が付与されましたが、心身上の事由などで兵士になれなかった者や老人、女性など、銃後の市民が戦禍の犠牲者になった場合には「英霊」扱いを受けることはありませんでした。ましてや国家の戦争政策・思想に疑問を抱いたり批判的だった人は国賊扱いされたわけですから、「選別しない発想」と言えるものでは決してなかったと思います。

(ところで、キリスト教が入ってきたのは近代ではなく中世ではなかったでしょうか?)

> > そういった点で、工藤さんの特定の対象群を選別した上での「ありがとう」という感謝の言葉は、宗教的精神、態度という点からみて大きな違和感が残るものです。また、亡くなった全ての死者に哀悼の念を持ち冥福を祈るという態度、行為であれば、政治性の希薄な宗教的精神から発せられたものだと言えるでしょうが、そういった態度、行為は「感謝」という言葉の概念で代表され、括られるものではないと思います。
>
> いずれにせよ、自分とは、関係ない人間の死に対して、平等に哀悼の念をもち冥福をいのるべき、とするなな様の道徳的感情は理解できるのですが、道徳的感情を他者に押しつけるのはいかがなものかと思いますが。人は、共感できる範囲で哀悼の念を表せばいいのではありませんか?。いきなり、「すべての死者」に哀悼など、すさまじい意図性でももたない限り、どうしてできるのでしょう?
> といいますか、私の親戚も戦死しておりますが、見たことのない親戚の死などに哀悼の念など表しようがないのですが、なにか問題がありますかね。

書き方が悪かったのか誤解されたようですね。
「自分とは、関係ない人間の死に対して、平等に哀悼の念をもち冥福をいのるべき」などと「道徳的感情を他者に押しつける」主張をしたのではありません。「どのような形で亡くなったのであれ、故人に対しては哀悼の念を持ち冥福を祈るという態度は、政治性の希薄な宗教的精神から発せられたものと言えるだろう」というのが私の論旨です。言い換えれば、「死者に対する哀悼の念、冥福を祈る気持ちが、宗教的な精神、動機から生じたものであれば、そこには対象を選ぶという発想、思想はなく、またその対象が必ずしも親族、知人といった範囲に限られるものでもないだろう」ということです。そういった意味では、宗教心の深い人が遠い他人の死に際しても哀悼の念や冥福を祈る気持ちを持つというのはごくふつうなことだと思います。

くどいようですが、私がこのような論旨を展開した意図は、工藤さんの投稿に対してtpknさんが「それは政治性のない宗教的な態度から発せられているものだ」という主旨の擁護意見を書かれたので、宗教的な態度(心、精神と言い換えてもいいでしょう)から生じたものならば、少なくともその対象が「戦死者」だけに限られるのは不自然ではないかということにあったことをご理解いただければと思います。

> > 以上の検討から、工藤さんの発言には政治性はなく純粋に宗教的な気持ち、態度から発せられたものだと解釈するには無理があると思います。烏龍茶さんやクマさんからの批判もこのような観点から工藤さんの発言の(意識的かそうでないかは別としても)政治性を認めた上でなされたものだと思いますね。
>
> 「純粋」というものをわざわざ措定し、そこからはみ出たものを摘出して、その剰余部分に「政治性」と名付けてしまおうとするなな様の方法論の方が、相当屈折しているような気がいたしますが。そもそも、純粋なら死者全員に哀悼が捧げられるはず、というのはどう考えても非論理的でしょう。

少し言葉足らずのところがあったと反省しておりますが、「純粋なら死者全員に哀悼が捧げられるはず」などとも主張しておりません。
あくまでも申し上げたかったことは上述のとおりです。