29032 返信 旅順虐殺事件 ほか: 森永和彦様 URL memo 2004/07/26 22:31

** 森永和彦様 **

> 横槍になりますが、「スウェーデン」という表記には反対です。
>
> 日本では、なぜか外国の固有名詞を英語式に表記することが多いですが、英語ではなく原語に基づいた表記をすべきです。
>
> 韓国と朝鮮でも同じ問題が見られます。韓国では、日本と同じように英語式の表記がまかり通りますが、朝鮮では原語を尊重しています。朝鮮のほうが正しいと思います。
>
> ここに対照表があります。
> http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/choes/korean/nanboku/Hglkokumei.html
(28855)

 資料の紹介ありがとうございます。
 しかし、カナにハングルほどの表音能力はないように思えますし、全ての現地文字を併記する能力は私にはありません。結局日本語で書くのですから、基本的には日本人に通じやすく、読みやすいように表記すればいいと割り切っています。

** 旅順虐殺事件 **

 1894年7月25日、豊島沖で日本艦隊が清国艦隊を攻撃したことにより始まった日清戦争(朝鮮王宮占領は7月23日、宣戦布告は8月1日)は、9月17日の黄海海戦などほぼ日本優勢の下に戦闘が続き、11月21日には堅塁を謳われた旅順も陥落しました。この時、日本軍がかなりの非戦闘員を殺害した記録が残されています。

 10月24日に遼東半島に上陸した日本軍は11月7日には大連を占領し、11月17日には旅順攻略に向かいました。ところが翌18日、先鋒の騎兵隊が土城子で清国軍に敗れ、中万中尉以下11人が戦死します。さらに清兵が彼らの死体を陵辱したことが、日本将兵の屈辱感に輪をかけました。
 特に第一師団長山地元冶は、

> 鼠族の如き敵兵に向ひ今日の戦を見るは遺憾也

と激怒し、以下のような命令を下しました。

> かくの如き非人道を敢えて行う国民は婦女老若を除く他全部剪除せよ

http://kyoukasyonet.fc2web.com/kiru7.htm

 11月21日の朝にはじまった旅順要塞の攻防はほぼ午前中に終わり、旅順の民政責任者や守備隊司令官が既に逃走していたこともあって、21日午後からは、市内に突入した日本軍の一方的な「掃討」が展開されました。
 22日に市内に入った有賀長雄・第2軍司令部付国際法顧問は、以下のように記しています。

> 道の両側に民屋連列せり。而(しこう)して戸外及び戸内に在るものは死体ならざるなく、特に横路の如きは累積する屍体を踏み越ゆるに非ざれば通過し難かりき。東街、中街、西街らも皆屍体を以て満たされたり。

> 市街に在りし死体の総数は無慮二千にして其の中五百は非戦闘者なり。
(現代史の争点 秦郁彦 文芸春秋 1998年 p225)

 英国の「タイムス」12月3日号にある、コーウェン特派員の言葉はさらに具体的です。

> 清国軍は、最後まで抵抗した。清国兵が平服に武器を隠し持っているのを、私は目にしたし、爆発弾を隠し持っているのも見つけた。民間人が戦闘に参加し、家々から発砲し、それゆえに彼らを根絶する必要があると判断した旨を日本軍は報告している。日本軍は、日本人捕虜の死体のうち幾つかが生きたまま火焙りにされたり、手足を切断されたりしたのを目にし、より激昂したのであった。私は次ぐる4日間、市街では抵抗がないのを知っていた。日本兵は全市街を略奪し、そこにいたほとんど全ての人々を殺戮した。ごく少数であるが、婦女子が誤って殺された。多数の清国人捕虜が、両腕を縛られ、衣服を剥がされ、刃物で切り刻まれ、切り裂かれ、腸(はらわた)を取り出され、手足を切断されたことを、私はさらに陸奥子爵に伝えた。多くの死体は、部分的に焼かれた。

 これに対し日本政府は「取糺(とりただ)すことは危険多くして不得策なれば、このまま不問に付し専ら弁護の方便を執るの外なし」(伊藤首相)という姿勢を取り、山地や乃木希典・第1旅団長等の責任者の処分は行わずに、外国新聞の買収等に力を注ぎました。

 翌1895年2月2日の威海衛占領で日本の戦勝は決定的となりましたが、4月17日の下関条約で得た遼東半島は、4月23日の三国干渉により返還されました。旅順にはロシアの要塞が築かれ、後の日露戦争時には、10年前よりはるかに強力な壁として乃木の前に立ち塞がることになります。


** 余談 **

 小林哲夫さんの29024番投稿「私の中国経験」は気持ちのいい文章でした。
http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_plain?base=29024&range=1