29405 | 返信 | Re:9月6日「百人斬り」裁判公判:その意味 | URL | inti-sol | 2004/09/12 01:25 | |
渡辺様・梶村様 > 高度に政治的な裁判です。 百人斬り裁判が高度に政治的な裁判であることはいうまでもありませんが、しかし、政治的であることそれ自体は、何の問題もないことだと思います。例えば、ゴラン高原PKF派遣差し止め訴訟なども充分に「政治的」です。 問題は、そのために、55年も前に当人が亡くなっている歴史的事実について名誉毀損で訴えるというやり方です。これは、裁判のための裁判としかいいようがないと私は思います。 > 歴史の事実の判断を、裁判所に委ねて訴訟合戦になるようなことには、むしろ反対する立場です。 この意見にも、まったく賛成です。 裁判官は法律の専門家であって、歴史の専門家ではありません。 今回の裁判の判決がもし、「百人斬りは事実であった」と認定したとしても、原告側は「百人斬りは事実だった」と認めるかと言えば、そんなことは絶対にないでしょう。逆に「百人斬りは事実無根である」と認定したとしても、私は百人斬りが事実無根であるとはまったく思わないし、被告側の支援者の誰もが同様でしょう。 実際、李秀英裁判その他で、南京大虐殺に関しては裁判所は「虐殺はあった」という事実認定を何度もしています。そして「南京大虐殺は事実無根である」などという事実認定を行った判決は、私の知る限り一つもない。けれども、それによって「やはり南京大虐殺は事実だった」と納得する右翼などいませんでした。 つまり、裁判所がどういう判決を下そうと、論争に対してはほとんど何の影響力ももたないわけで、そういうことを裁判の場で争うこと自体、ある意味不毛なことだと思います。 > 訴訟のほうは新しい展開をむかえ、敗訴確実とみた原告側が訴訟を取下げ、あっけなく終わってしまうかも知れません。 希望的観測としては私もそう願いたいところですが、しかし彼等の立場に立って想像すると、訴訟取り下げなんて絶対にしない、いや、できないだろうと思います。そんなことをすれば、彼等なりの自尊心がずたずたに引き裂かれるでしょうから。そもそも最初から裁判そのものに勝ち目があるとは思っていないでしょう。敗訴覚悟で裁判を百人斬り否定の宣伝に活用するために起こした裁判だろうと私は判断しています。 |
||||||
![]() |