29891 | 返信 | Re:日本軍の人肉食 | URL | inti-sol | 2004/10/06 22:00 | |
tpknさん > > 同胞である日本兵の人肉を食べたという証言証拠はある。そうであれば、当然敵の遺体があればその肉も食べただろうというのは、蓋然性の高い推論だと思われます。 > > 場所が違うでしょう? なぜ? 渡辺さんは、中国戦線での日本兵の(味方同士の)人肉食の証言を紹介しています。(投稿29737)私は、それに基づいて推論しています。 それとは別に、クマさんから、飢餓とは別の理由での人肉食(人間の脳を食べると性病が治る等の「民間療法」)の証言がある旨の投稿もありました。 > いいですか、「食べた人」が残虐ではないのなら、戦場で味方を食った兵士は残虐ではないのです。したがって、その兵士が行った行為は「残虐行為」たりえないわけです。 「したがって」より前の部分には同意します。クマさんの指摘しているような飢餓に起因しない例は除いて、極限状態で人肉を喰った兵士が残虐だとは、私も思いません。しかし、「その兵士が行った行為は「残虐行為」たりえないわけです。」には、まったく不同意です。 人肉食を行った兵士本人は、飢餓の極限状態の中で平時の正常な心理状態ではない(私だって同じ立場に立てば同じことになるでしょう)のですから、責任能力が問えるような状態とは言えません。しかし、補給計画を欠いたまま彼等を戦地に送り込んだ戦争指導者はどうか。飢餓の泥沼にはまりこみつつあるときに、下らぬメンツのために撤退を決断できなかった戦争指導者はどうか。(これは、ガダルカナルの構図であり、ニューギニアの構図であり、インパールの構図であり、レイテの構図であり、中国戦線で言えば大陸打通作戦の構図です)彼等は、別に飢餓の極限状態の中で作戦を立案したわけではありません。兵士たちが人肉を食べるような残虐行為は、すなわちそのような作戦を企図したものの残虐行為であると私は考えます。 > 「人肉食は残虐行為」と言うときの「行為」の主体は「食べた人」ですから、「食べた人ではなく」は成り立たないんですよ。 私はそうは思わないのですよ。つまり、私が「人肉食は残虐行為」というのは、食べた行為そのものを指すのではなく、人肉食をしなければ生き延びられない(いや、人肉食をしても生き延びられない)状態に置かれたことを指しているからです。 「食べた人」には何の決定権もないし、選択権もない。あるとすれば、餓死するか人肉を喰うかという、限りなく不毛な二者択一です。彼等をそのような境遇に陥れた決定権者は、地獄の線上の外にいた。その選択を行った者こそが、日本兵に対して残虐行為を行った者たちである、というのが私の考え。 > 厳しい自然環境の中で一切の食料もなく命の危険に常に晒されていた兵士が味方の死体を食ったからといって、飽食の現代に生きる我々がそれをなぜ「残虐行為」などと簡単に書いてしまえるのか。あまりにも想像力が欠如していないでしょうか。 そういう言い方をすると、戦場における残虐行為は一切残虐行為ではないことになってしまいます。前にも書きましたが、人間平時の精神状態では、そうそう残虐行為など引き起こすものではなく、基本的にはほとんどの残虐行為は戦場の精神的または肉体的な極限状態が原因になっているからです。至近の例で言えば、イラクの米軍による残虐行為がそうでしょう。四六時中、敵がどこにいるか分からない。イラク人の大多数は米軍に敵意を現しているし、ゲリラ兵はどこにいるのか分からない。そして、米兵の犠牲はどんどん増えていく。もちろん、肉体的な意味では、米兵は飢餓線上あるわけではないけれど、精神的には相当追いつめられており、まわりがみんなゲリラ兵に見えたとしても当然だろうと思います。では、米兵の行った行為は残虐ではないのか、平和な日本に生きる我々がそれを非難する資格はないのか、といえば、Noだと思うのです。 |
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