30026 | 返信 | Re:よく言うよ。 | URL | あしな | 2004/10/13 02:04 | |
> そんなことはないでしょう。私の言っていることは常に一貫していて揺らぎがありません。 > 揺らいでいるかどうかという事ではないです。 > まず、ここで話し合われていることが「特定の行為」についてのものであること。それを「残虐行為」と評価するinti-solさんのほうから、残虐な行為を行ったのは直接の行為者ではなく、その行為者に行為を行わせた者であるという意見が出たこと。ここで、直接の行為者と間接的な行為者の二者について、それぞれの行為の評価をしなければいけなくなったわけです。したがってこの文脈では、私もinti-solさんも直接的な行為者と間接的な行為者の一般的人格や性格等については一切言及していません。そこに書いてある「残虐なのは」というのは、単に文脈上明らかなので「残虐な行為を行ったのは」と書くかわりに省略した形です。ためしに上記の「残虐なのは」をすべて「残虐な行為を行ったのは」に置き換えても意味は通じますが、「残虐な性格なのは」「人格的に残虐なのは」に置き換えれば、まったく意味が通じなくなります。これが、文脈ということです。 > 私も人肉食者の一般的性格が残虐であるという話はしていません。ここの部分だけ読むと、「人肉食も残虐な行為」であるという事でよろしいんでしょうか? > というか、仮にどちらともとれる文章を誤解していたとしてもですよ? 本人が「そういう意味ではない」という補足を行っているのですから、「いや、そういう意味である」と言うためには、なぜそうなるのかをちゃんと説明しないとだめでしょう。 > 補足が補足になっていないから言っているんです。なぜなら、何度も言っているように「緊急避難」は行為者が残虐とは言えない条件であっても行為そのものが残虐ではない条件だからです。 > > 私は「ある行為が残虐であるかどうか」は、「行為の当事者が日常的にその行為を残虐と見なしているかどうか」によって決まると言っています。 > > そういうことを言い出したのは途中からでしょう? いや、今初めてです。 > > まずそのおかしさについて説明しておきます。「行為の当事者が日常的にその行為を残虐と見なしているかどうか」が残虐であるかどうかの判断基準となるのであれば、とたとえば殺人によって快感を覚える異常者が行った殺人事件は、誰にとっても残虐ではないということになります。そんなことはありえないでしょう。さらに言えば、アブグレイブ刑務所での米兵による捕虜虐待も、まったく残虐ではないということになるでしょう。 > そう読めなかったとしたら申し訳ないが、再三そう述べています。で、上の例は異常者を一般化している点で全く無理です。アグレイブ刑務所の米兵の例で言えば、彼らが従軍前に問題の行為を残虐だと見なしていて、かつ行為の後にも自らの残虐行為に悪感情を抱くのであれば、彼らが残虐となってしまう条件を強いられたという事例です。条件がそろえばあらゆる人間が残虐に振る舞えるという典型例でしょう。 > 残虐とは「無慈悲で残酷であること」の意味ですから、むしろ実際は逆ですね。当人が残虐と意識していないときのほうが、行われた行為がいっそう残虐になる可能性のほうが高いでしょう。 > 行為の時点にとっての話であれば全くその通り。それ故、私は日常性とか、それ以前、以後ということを再三言っています。残虐な行為をしてしまった人間が、それ以前に彼が属していた日常的な価値観に復帰したときに、自らの残虐行為をどう思うかという事を問題にしてきています。あえて行為の時点に話を限定されてもそれこそ話になりません。 > > あしな天皇は「行為そのものの意味」について語っていたのではなく、「行為が主体の意味を決定する」という妄論を述べていたのですが? > 「主体の属性によって行為の意味が決定される」という妄言に対する発言です。良い人がしたから良い行為なのではなく、良い行為をしたから良い人と普通は見なすでしょう、と言っているだけの事で、どこが妄論なのでしょうか?それともやはり「良い人がしたから良い行為」と仰るのかな? > 言葉遊びはやめましょう。そういう話ではなくて、どちらがどちらに「優越している」などとなぜ言えるのかということです。ゲットーや貧民地区で生活している人など残虐な日常を生きている人にとって、日常が非日常に優越するかといえば、そんなことはとても言えないでしょう。そういう考え方は、ある人が置かれた社会状況によってその人の行動を予断する、たいへん危険で差別的な考え方と言えるでしょう。 > その場合は「残虐な日常」が日常なんだって。しかもこちらから見て残虐でも彼らなりのルールに基づいている場合、そのルールをこちらに強要してくるのでなければ、そもそも残虐ではない。それはtpknさん御自身が以前少し触れていたように、食人がルールとして成立している文化に属す人人の間でのルールに則った食人が残虐ではないのと一緒です。 こういう見当違いな事がいえるのは、「日常性」という言葉が常に「自分の日常性」だと無自覚に思っているからなんじゃないの? > で、おっしゃる「自覚」についてですが、自覚している可能性もあるし自覚していない可能性もあるでしょう。あしな天皇の問題は、仮にそのときに自覚していなかった人がいた場合、その人に対して、「後悔」を強いるような発言をしたことです。「後悔」とは、「やったことを悔いる」ということであり、やらなければ良かったと後から考えることです。死の可能性から戦場でやむを得ず人肉食をした人に対して、「おまえはそういうことをやらなければよかったのだ」と言うことは「直面化」でもなんでもなく、単に「おまえが今生きているのは間違っている」と宣告するに等しいでしょう。そのような資格があなたにあるのか?と問うております。 > 「おまえはそういうことをやらなければよかったのだ」と面と向かっていえば仰る通りですね。で、どこをどう読むとそうなるのかな?そう言う言い方をするのであれば、「確かに残虐な事はした。しかしそれはせざるを得なかったのであり、どうしてそんなはめに陥ったかを考える事が大切だ。」というところでしょう。勝手に話をぶっ飛ばさないでね。 > > ですから、誰もそのようなことは言っていないのですが…(苦笑)。誰も言っていないことに対して「むちゃくちゃです」と言われても、対処のしようがございませんというのは、あしな天皇への最初のレスで述べた通り。もちろん、「主体が行為の意味を決定」するわけはありませんし、その逆に「行為が主体の意味を決定する」わけでもありません。あなたが上で書いていることは、単にどちらも間違っている…というか、このスレッドでの議題とは無関係なことにすぎません。 > > > 私たちは普通、残虐な行為をする人を(少なくともその行為の時点では)残虐な人であると見なします。人格の評価などという者はその人の行為を通してしかできません。tpknさんが「その人が残虐であるかどうかは俺が直感的に決める。」と言うならそれは自由ですが、もちろん私は認めません。 > > 私はそのようなことは言っていないのですが…(苦笑)。もちろん「残虐な行為をする人」は、その時点では残虐でしょう。しかしその行為が「残虐な行為」でなければ、その人はその時点では残虐ではない、というのが私の言っていることです。何回説明させるんですか? で、直感的に決めるもなにも、私はなぜ戦場での人肉食が残虐行為と見なせないかについてえんえんと説明していますが、あしな天皇は「残虐だから残虐行為」としか言ってないのですけども(笑)。 > 「行為が主体の意味を決める」というのは、「「残虐な行為をする人」は、その時点では残虐でしょう。」というのと変わらんと思います。持続的かつ頻繁な行為を対象とするのであれば、「主体の意味」が「ある程度継続的/一般的な人格の評価」になります。 で、そちらが言ってる「戦場での人肉食が残虐行為と見なせない」理由は、緊急避難的なしかも強いられたものというのは、行為主体がおかれた条件の話であって「行為そのもの」で条件ではないと言っています。だから行為主体が残虐ではない理由ではあっても行為が残虐ではない理由にはならないと。 > > 極限状態での人肉食が「残虐ではない」のならば、人肉を食べた人は自分が残虐な事を強いられたとは思っていない事になるでしょう。それ故、 > > ならないでしょう。たとえその人が自分では「残虐だ」と考えており、自責の念に駆られていたとしても、第三者がその行為をどう評価するかは基本的にはそれと無関係です。これが、緊急避難のときに殺人の違法性が阻却される理由でもあります。また、当人が「残虐ではない」と考えたとしても、客観的に見て倫理的に問題のある行動であれば、第三者はその行為に対して「残虐だ」という評価を下すでしょう。 > 人肉食者を残虐ではないと見なすために特殊条件が必要であるという事は、人肉食という行為そのものは残虐であるという事じゃないですか。 > > > > これは人肉食の記憶に苦い思いを抱く人々に対して、その記憶の苦さを抑圧させています。 > > > > > > 他人の思いを稚拙な日常的倫理観で勝手に斟酌することを独善と申し上げております。これ、左翼のもっとも批判されている部分ですけども。 > > > > > 人肉を食った戦時中の日本人が、その後も自分が人肉を食ったという事実に対して苦い気持ちを抱いたであろうと考える事がどうして「稚拙な日常的倫理観で勝手に斟酌」とされるのでしょうか?そこが全く了解不能。 > > おっと、気づきませんでしたが、いつの間にか「残虐行為」「後悔」「悔恨」が「苦い気持」に変わっておりますね。これがごまかしでないのなら、あしな天皇の主張が揺れ動いていることの証拠です。言うまでもありませんが、「俺は残虐な行為をしてしまった」「あんなことはしなければよかった(後悔)」と、「苦い気持ち」では全く違うと思いますが? > > で、そのことについては#29976で、 > > > それを言うのであれば、「個々の日本兵が彼らの日常生活において人肉食を特殊で残虐な行為であると感じていたのであれば、人肉食は忌まわしい行為であると言えます」というぐらいが妥当でしょう。 > > とちゃんと指摘してあるでしょうが。 > 忌まわしいと思うのは、人肉食という行為そのものが残虐であるからでしょうとお答えしたはずです。その上で、自分の残虐行為に対して、「後悔」でも「悔恨」でも「苦い思い」でも忌まわしいー残虐な行為を外傷体験として想起する際のネガティブな感情のバリエーションとして同様に見なせます。 > 悔やんでない人に対してはどうするのです? 私が言っているのはそのことです。そういう人々が、必ず「悔やんでいる」と決めつけることを、「稚拙な日常的倫理観で勝手に斟酌」と申し上げております。普通に考えて、忌まわしい気持ちや後悔や自己肯定やらがない交ぜになった、複雑な感情でしょう。 > 悔やんでいないにもいろいろとあり得ますが、「普通に考えて、忌まわしい気持ちや後悔や自己肯定やらがない交ぜになった、複雑な感情」であるならば、その人の日常の価値観(一般的には属する文化の価値基準)に即して合理化された方が良いでしょう。 > > > それは「他人の痛み」ではなく、自分が他人の痛みをわかっているとあしな天皇が思いこみたいがための架空の「痛み」です。まったく、どこまでも傲慢な考え方しかできない方ですね。 > > > > > この文脈に即せば、人肉を食った人間が、その事実に関してその後も平気でいられるかどうかという事で、私は、その人物は平気でいられないだろうと言っております。それが「架空の痛み」としか思えないのであれば、本当に「他人の痛み」に対する想像力とか共感能力を欠いているのではないですか?マヒケンみたいな奴か? > > 架空の痛みというのは、「平気でいられないだろう」ということではなく「後悔するはずだ」という決めつけに対してです。「苦い気持ち」であれ「忌まわしい気持ち」であれ、なんらかの複雑な感情を抱いているでしょうが、それは「後悔」「悔恨」などという単純極まりないものではないでしょう。そうした単純極まりない感情を想定して、その人物に対して「直面化」だの、「他人の痛み」だのなんだのと言っていることがお笑い種だということです。 > 前に述べた通り、「後悔」「悔恨」「苦い気持ち」「忌まわしい気持ち」の諸々、人によって千差万別の感情のあり方を「平気でいられないだろう」と述べています。もし私が 「後悔するはずだ」という決めつけていると思い込んでいるのであれば、どこでどう誤読したか知りませんが、誤読か、揚げ足取りです。 > じゃあ言及したらどうかね? あしな天皇はあしな天皇であり、私は昨年からずっとあしな天皇と読んでおり、ときには「あし天」と省略した形で表記していますがなにか? > ※ちなみに新しい2ちゃんねらーの人のために解説しておくと、水テソは「水原天皇」の略です(笑)。 > tpknさんはそうやって居直るしかないでしょ。 > > もし自らの残虐行為による痛みを感じている人間に対して「その行為は残虐ではなかった」と言えば、災害の被災者に対して「あなたのあった災害は大した事無かった」というようなものです。 > > まったく違います。行為は当人によって行われるものであり、その責任について当人は意識せざるをえなくなりますが、災害は最初から当人が責任を感じたりするたぐいのものではないからです。もう例示としては、完璧なまでにムチャクチャ。 > ここでは外傷体験としてみた場合の共通性に関して述べています。ベトナムで敵を殺すのも、災害で近しい人が死ぬのも同様に悲惨です。その悲惨さは前者では残虐な行為に、後者では悲運な災害に引き起こされる点はもちろん違います。 |
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