30187 返信 Re:幕府山虐殺時の歩兵第65連隊の兵力 URL ゆう@小さな資料集 2004/10/17 14:23
>  平林貞治氏(連隊砲小隊長)は、虐殺当時の兵力を以下のように証言しています。
> ---- 引用 ----
>  (1) わが方の兵力は、上海の激戦で死傷者続出し、出発時の約3分の1の1500足らずとなり、その上に、へとへとに疲れ切っていた。
> ---- 終わり ----
>  また、連隊長の両角業作大佐は、次のように記しています。
> ---- 引用 ----
>  当時、我が聯隊将兵は進撃に次ぐ進撃で消耗も甚だしく、恐らく千数十人であったと思う。
> 『南京戦史資料集2』P339〜341
> ---- 終わり ----
>  「1500足らず」と「千数十人」として、おおむね一致する数を挙げています。
>
>
>  一方、これらの証言に対して、当時の第65連隊の総数を示す次のような資料が存在します。
>  『第四中隊史』(歩六五第四中隊史編集委員会〔編〕)によると、歩兵第65連隊の当初の定員と補充兵の数は次のように記されています。
> (p132-133より)
> 昭和12年9月18日 3695
>     10月10日   55
>     10月24日  423
>     12月05日  347
>     12月17日  427
>  9月18日の数は、当初の定員、それ以降は補充された数を意味します。定員と補充の総計は4947名ということになります。
>
>  当時の連隊の死者に関しては、同連隊第7中隊の新妻富雄上等兵が、陣中日記に次のように記しています。
> ---- 引用 ----
> 十二月廿九日 雲(曇)天
>  昨日降った雪は朝になって止め。
>  本日は聯隊の慰霊祭、午前十時より師団長参列し正午終る。
>  聯隊の戦死者六百七拾九名
>  不(負)傷者壱千四百名余
>  師団戦死者二千三四百名
>  井上分隊長帰る本日正午。
> 『南京大虐殺を記録した皇軍たち』p178
> ---- 終わり ----
>  本来、負傷者のすべてが戦力外となるとも思えないのですが、負傷者と戦死者数を足すと約2100名になります。
>
>
>  歩兵第65連隊の総数4947名から約2100名を引くと約2847名が当時の連隊の総数となります。
>  もちろん、幕府山の虐殺に関連したのは、山田支隊(歩兵第65連隊+山砲兵第19連隊第3大隊+その他)ですので、同支隊の総数は3000名をはるかに超えていたものと考えられます。
>  平林氏や両角氏の証言が期せずして一致したのは偶然であるのか、それとも事前に打ち合わせが為されていたのかは不明ですが、これらの証言は誤りであると考えるのが妥当と思われます。




こんなマニアックな話題をこちらでやっていいのかどうかわかりませんが・・・。

福島民友新聞社『郷土部隊戦記1』P98より。

>警備の期間中(ゆう注.12月2日から6日まで)、部隊はつぎの作戦行動のために兵員・弾薬などの補給を行なった。兵員の補充は三百七十四人、すでに馬家宅で四百二十三人を補充したが、あわせてようやく全部隊二千二百人である。上海上陸いらい満二ヵ月。この間に老陸宅、馬家宅で六百十六人、そのご江陰城攻略までに八十人の将兵が戦死、負傷者は実に千五百人余にも達した。歓呼のアラシに送られ、会津若松の兵営を出たときは三千七百人、それが千百余人に減ってしまった。


同じく福島民友新聞社編『ふくしま戦争と人間1』P113より。

>昭和十二年十二月十四日未明、兵力二千二百余(山砲兵十九連隊など配属)の若松連隊は、その中国兵の大軍のウズのなかにはまり込んでいた。


12月初旬段階で2200人、というのが「公式見解」と考えていいと思います。
「12月17日」の補充427人(私はまだ確認できていませんが)を含めると、2600人強、ということになります。