30431 返信 Re:第3世界主義者の神話 ほかRe:読解力と思考力の不足 Re:БиХ(BiH)その他について Re:「イスラエル」支配地域はすべて「占領地」Re:処刑された死者にも死後の人権はある。 URL 2004/10/29 16:48
変なHNをもつ人物が森永さんの議論にケチをつけているようですが、こちらも誤りだらけの投稿ですので、どこが間違っているのか、指摘しておきましょうね。


>  繰り返して言いましょう。東チモールやアチェやチェチェンが独立するべきか否かを決めるのは、東チモールやアチェやチェチェンの住民であって、平和で安全な日本社会において、パソコンの前で観念的なおしゃべりをする日本人左翼ではありません。
>  アチェの独立運動派は、「イスラーム法の施行」をインドネシア全体に要求しているわけではない。また、チェチェンの独立運動家は「ワッハーブ派の宗教独裁」をロシア全体に要求しているわけでもない。そこにあるのは、被抑圧民族による民族解放の闘いであって、宗教戦争ではないのです。また、抑圧的な宗教勢力の打倒は、アチェやチェチェンの住民によって行なわれるべき性質のものであって、ロシア軍やインドネシア軍などによって行なわれるべきものではないのです。

パソコンの前で観念的なおしゃべりをする日本人左翼って一体誰のことだよ、と笑いが止まらなくなる駄文ですが、特に後半の文章には笑わせてもらいました。チェチェン独立派はワッハーブ派の宗教独裁をロシア全体に求めているわけではなく、チェチェンだけを対象に宗教独裁を求めているからいいのだ、ということであるならば、特定地域の多数派が個人の権利を抑圧する体制を作っても、外部からそれに対して文句をつけたり、反対する少数派を援助することは許されないということになってきます。にゃ何とかによれば、例えばフィリピンのムスリムの権利をどこまで認めるかは「フィリピン人」の決めることであり、ムスリムの権利がほとんど認められないとしても外部から干渉することは許されない、ということになります。また、チェチェン人は同時に「ロシア連邦国民」でもあるわけで、「ロシア連邦」が「われわれのことはわれわれで決めるので、関係ない日本人に口を出してほしくない」といわれたら、返す言葉がなくなります。抑圧的な宗教勢力の打倒に外部勢力が関わるべきでないという主張は、「アムネスティ・インターナショナル」のような連中に真っ先にいってやったほうがいいでしょう。大笑いされると思いますが。


>  バルト三国のソ連への併合は、スターリンのソ連による脅迫の結果実現したもので、これは第2次大戦初期の、ナチスとの協商政策のなかで行なわれたものです。1939年8月23日、モスクワで締結された独ソ不可侵条約に付属する秘密議定書でソ連はフィンランド・エストニア・ラトビア・ポーランド東部地域(西ベラルーシと西ウクライナ)、そしてルーマニアの旧ロシア領地域を勢力圏とし、リトアニアはドイツの勢力圏とすることを取り決めました。9月28日にはドイツ・ソ連は勢力圏を修正し、ポーランドのルブリン地方と交換でリトアニアをソ連の勢力圏としたのです。
>  ソ連はエストニア・ラトビア・リトアニアと1939年9月終わりから10月はじめにかけて相互援助条約締結を強制し、1940年この相互援助条約「違反」を理由に政府の退陣と議会の選挙を強要しました。そしてソ連軍が侵入して反対派が逮捕され、6月から7月にかけての選挙では親ソ連派の候補しか立候補できず、こうして「成立」した議会の「要請」により、バルト三国はソ連に併合されました。
>  それは、バルト三国の住民、労働者とは全く何の関係もない場で取り決められたものであって、それゆえ、「生活水準が高い」などという言葉で、旧ユーゴスラビアのなかで生活水準の高かったスロベニア・クロアチアの分離・独立運動と同一視するのは、全く大きな誤りです。
>  ソ連が新たに得た領土は、併合されてから、ナチス・ドイツがソ連を攻撃するまでの間に、多くの反対派が逮捕・投獄・流刑となりました。一年間でエストニアから5万9700人、ラトビアから3万4250人、リトアニアから3万500人がシベリアなどに追放され、スターリンの死後に生きて故国の地を踏むことのできたのは、そのうちの20%に満たなかったわけです。旧ポーランド領の西ベラルーシでも一年間に30万人以上が追放され、西ウクライナではウクライナ人、ポーランド人、ユダヤ人らが70万人以上追放されました。そのうえ、独ソ戦争の開始の際に西ウクライナから敗走したソ連軍は、敗走の際に獄中にいた政治犯約1万人を大量虐殺しました。また旧ルーマニア領のモルドバはスターリン時代全体で人口の6分の1を失っています。
>  バルト三国とウクライナでの抵抗運動とパルチザンはその後も1950年代初めまで活動していました。バルト三国で活動したのは「森の兄弟」と呼ばれるパルチザン軍です。

ソ連がバルト諸国を併合した経緯はにゃ何とかの説明を待つまでもなく有名なことですが、それでは、バルト諸国から志願してドイツ軍、特に武装親衛隊に参加した将兵のことはにゃ何とかにはどのように映っているのでしょうか。ウクライナも同様で、ドイツ軍の指揮下で行動したいわゆる「ウラソフ軍団」や武装親衛隊内部のレット人、エストニア人その他の部隊の運命はよく知られています。にゃ何とかにとっては、これらの人々の行為は、抑圧的なソ連の支配に対する英雄的な抵抗運動なんですか?それともファシストに協力する憎むべき反動ですか?単純な善悪二分論で何でも片付くとおもっているから、いい加減な話が平気で口をついて出てくるのでしょう。



>  「ソ連一国でも社会主義建設は可能」という一国社会主義論は、必然的にソ連愛国主義を生み出し、それは第二次大戦のなかで頂点に達していく(そもそも独ソ戦争をソ連側で「大祖国戦争」と呼称したこと自体が、ナポレオン軍のロシア遠征を帝政ロシアの側で「祖国戦争」と呼称したことを意識したもの)のですが、その実体は帝政ロシアのなかで支配民族・抑圧民族の地位にあったロシア人のナショナリズムの一形態でしかありません。それは、マルクス主義ともレーニン主義とも無縁の代物です。ソ連崩壊後に、スターリンなどの肖像を掲げるロシアの自称「左翼」は極右や反ユダヤ主義勢力との共闘・共同行動に走っています。チトーがセルビアとクロアチアのナショナリストから、今日激しい罵倒を受けていることとは、全く事情が違っています。いったい、極右排外主義者を同盟者とする「左翼」とは何なのでしょうか?極右排外主義者を評価する「左翼」とはいったい何なのでしょうか?極右排外主義から評価される「左翼」とはいったい何なのでしょうか?

さてスターリンは「なに人」だっただろうか、という軽い突っ込みはまあいいとして、にゃ何とかのシンプルな思考では、「マルクス主義」「レーニン主義」がどこの社会主義国でも、現実的に民族単位の自立的傾向に対しては抑圧的だったという事実についてはどう考えているのでしょうか。別にソ連に限った話じゃないでしょう。中国しかり、ルーマニアしかり、カンボジアしかり、もちろん上でいわれているユーゴスラビアしかりです。にゃ何とかからは、「なぜ社会主義体制下では、民族的自立が嫌悪されたのか」という問題がさっぱり抜け落ちているようですが、民族的自立が国家の分解と階級支配の瓦解を生み出しかねない危険なものだったという問題のことなどまったく考えていないようですね。これで左翼を自称しているつもりらしいというところが何とも味わい深いです。

>  ロシア・ナショナリズムの一形態としてのソ連愛国主義は、その結果として帝政ロシアにも似た少数民族・被抑圧民族への迫害を行なったのです。1937年の朝鮮人17万5000人の沿海州から中央アジアへの強制移住、独ソ戦争勃発直後の、ヴォルガ・ドイツ人40万人のシベリア・カザフスタンへの強制移住と、彼らの自治共和国の廃止にはじまって、それは多くの少数民族にも同様の運命を与えることとなったのです。1943年末にはカフカスのカルムイク人・カラチャイ人・バルカル人が強制移住させられ、1944年にはチェチェン人とイングーシ人が「対独協力の罪」で移住させられました。ちなみに、この地は一度もドイツ人に占領されたことはなかったのでです。そして、1944年5月にはクリミア半島からクリミア・タタール人42万3000人がことごとく中央アジアに強制移住させられることとなったのです。追放地につくまでに半数近い19万5000人が死亡しました。移住に際しては、事前に何の連絡もないまま、村の中心に集められ、行き先も告げずに家畜運搬用の貨車に詰め込まれたといいます。そして、1944年11月には、トルコとの国境近くに住んでいたトルコ系メスへチア人が中央アジアに強制移住させられました。他にも、ギリシャ人、クルド人、ブルガリア人などが強制移住させられました。
>  
>  もともとレーニンは「民族自決権」を明確に尊重する姿勢をとっていて、現にボリシェビキは第二回大会で「民族自決権」を党綱領に明記し、1919年3月に行われた第八回大会においてはレーニンはブハーリン・ピャタコフらに反対して再度「民族自決権の尊重」を明確にしていたのです。
>  1920年以降、ロシア共和国とその他の諸ソビエト共和国(ウクライナなど)との相互関係を再構築するための委員会では、スターリンは独立諸ソビエト共和国をロシア共和国に編入して独立主権国家を廃止し、そのなかで一部の自治を与えるという提案をしましたが、この提案にはグルジア・ベラルーシ・ウクライナなどの代表のみならず、レーニンも反対しました。
>  レーニンの提案では独立諸ソビエト共和国はロシア共和国に編入するのではなく、独立を維持しつつ、ロシア共和国と台頭の構成員としてともに「ソビエト社会主義共和国連邦」を形成し、そして、ここが重要なことなのですが、共和国の連邦からの自由な離脱権を認めるというものだったのです。

レーニンの都合のいいところだけを引用して何かいったようなつもりになるところは、左翼気取りのにゃ何とからしいふるまいです。レーニンが民族単位の共和国による連邦制を支持したことは事実ですから、そこまではいいでしょう。しかし、そのレーニン自身が民族運動が「反革命」の側に立ったとき、それに対しては容赦ない鉄槌を振るったことは周知の事実(例えばウクライナのラーダ政権)です。また、コミンテルン第二回大会に向けたレーニン「民族・植民地問題に関するテーゼ」(1920)の中で、レーニンは、
民族政策は、地主、ブルジョワジーに対する共同の闘争のためのものだとしていること、
連邦制は、あらゆる民族の勤労者の完全な統一への過渡的形態であるとしていること、
諸民族の同権を保障できるのはソビエト体制だけであり、他の政治形態をとることが各民族独自の権利であるなどという主張はまったく認められていないこと、
は、おそらくにゃ何とかは聞いたこともないのでしょうね。



>  その後スターリンはグルジアを独自にソビエト連邦に加盟させるのではなく、アルメニア・アゼルバイジャンと統合させて「ザカフカス連邦共和国」を設立し、これをソビエト連邦に加入させる方針をとり、そのための反対派の激しい弾圧を行なって、それを知った病床のレーニンは激怒してスターリンの書記長解任を求めて、トロツキーに協力を依頼したのです。

スターリンとレーニンの民族問題に関する相違は単純な民族共和国創設の可否などではないことは明らかです。にゃ何とかはレーニンがバスマチ運動をどう扱ったか、スルタン・ガリエフがどのような運命を辿ったのか、何も知らないようですが、せめて森永さん程度には勉強してから「反論」するべきじゃないですか?