30506 返信 Re:南京の(国民政府軍と国民解放軍etc. URL gaji 2004/10/31 21:08
> > あの、とほほさん。ごちゃまぜにしていませんか?
> > 上海〜南京にかけての戦闘での日本軍の死者は飢死によるものではなく、便衣兵等の活躍によるものではなかったのですか?
>
> あ、なるほどね、今度はそう来ましたか。
> 上海戦では便衣兵のゲリラ戦法が確かにありましたが。全体からすると便衣兵による被害は少ないですね、南京攻略戦開始以降ともなればほぼ皆無ですね。

やはり危害に遭った以上、以降は注意したでしょうから。

杭州湾上陸作戦実施に際し第十軍参謀長名で出された注意事項(1937・10)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

八、少人数ノ兵ノ行動ニ関スル注意
 少人数殊ニ單独兵ノ主力部隊ト離レテ行動スル場合支那軍又ハ便衣隊等ノタメ危害ヲ受ケタル例少ナカラス
 主力部隊ニ後レタル自動車数輌カ襲撃セラレタル例又ハ本体ニ後レタル落伍兵数名カ襲ハレタル例等有リ、指揮官ニ於テ注意ヲ要ス
ーーーーーーーーhttp://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/10gun-tyui.htm


ほぼ皆無かどうかは分かりません。
(前戦で戦闘をする部隊ではないが,前線部隊より遅れて入り,占領した地域の建築・架橋などを担当する部隊)「第五師団 第一建築輸卒隊」の「陣中日誌」には敗残兵のことが出てきます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
南京への追及に際し,以後敗残兵の放火を警戒しつつ,移動している。

 その敗残兵に初めて出会うのが,12月4日の湖州近くである。

 「湖州南方十粁の山間地に於て敵前道路修理作業を行ふ。五百米先方の山上の道穴に敗残兵らしき者五・六名認められる」

 12月9日に敗残兵と戦闘をしている。

 「途中山間部に於て敗残兵らしき者七・八名認め射撃をなす。我部隊損傷無く敵は遁走す」

 渡部隊長が所持していた地図には赤線で進軍した経路と青鉛筆で敵の存在をしめす地区が記入されている。連日「警戒ヲ厳重ニナシ帯剣巻脚袢装具ヲ身近ニオイテ就寝スルコト」という状態である。

 12月10日「午後九時歩哨支那人二名を歩哨線にて逮捕」とある。これは,夜外出していた一般人を捕まえたことを意味している。

 12月15日「午後一時作業班の傳令来り當舎営地北方約五粁の地点に於て敵の敗残兵数百名の来襲有りとの報部隊全員緊張。執銃班は直に戦闘準備同一時二十分戦闘準備完了。りつ(さんずいに栗)水北方丘陵に散開之撃退せんとす」

 12月16日第1分隊1個班26名が先遣隊が自動車で出発している。

 12月16日「午前九時附近民家内に潜伏しありたる敵敗残兵五名を発見逮捕之を銃殺す」とある。第一建築輸卒隊ですら,敗残兵の逮捕は即銃殺しているところをみると,南京での敗残兵及び便衣隊を「大虐殺」することは、当然の処置だったと推定される。

 12月17日秣陵関で火災攻撃を受けている。「舎営地附近に敗残兵の放火と認めらるる火災起り全員避難準備を完了し且消火に力む」とある。

 12月20日以後南京に舎営地において「火災豫附ニ付イテ兵站司令部ヨリ注意アリタリ各室不寝番」を置く状態で,「就寝ハ巻脚袢及靴ヲ抜クコト」の毎日であった。

 12月22日「午後十一時頃舎営地附近の猛火災に対して兵站部より警戒避難に対して注意ありたり」という南京市内の様子が伺われる。
ーーーーーーーーーーhttp://ww32.tiki.ne.jp/%7Eyamikato1952/jintyu/jintyu5.html


「支那人二名を歩哨線にて逮捕」というのは、便衣兵の脅威を警戒してのことだったのでしょうし。
12月13日の陥落以降も敗残兵たちは放火したり来襲したりしています。

> それから前にも言いましたが、他人の土地に勝手に攻め込んで、戦士者を出したのといきなり侵略されて戦死者を出したのをごっちゃにする方のおつむの方が心配です。

「いきなり侵略」したといえるのでしょうか。1900年、義和団事件鎮圧のためにイギリスやフランス他8カ国の連合軍の一軍に日本軍も参加。その後の日本軍の駐留というのは租界内の日本人保護のためであって、それは清国政府や支那政府承認のもとでの駐留ですよ。
その後、様々な事変を経て盧溝橋事件以降はとうとう激しい戦闘に突入してしまったわけですね。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「廬溝橋事件」発生後、日本は、現地解決・戦線不拡大方針を表明し、国民党軍との間に停戦協定が成立していました。要は、日本としては支那とこれ以上、事を構えたくはない。日本は支那との全面戦争は欲していない。だからこそ、事態をなるべく穏便に済ませたいと思っていたのです。しかし、支那は日本側のそんな期待を裏切って、「通州事件」を起こしました。当然ながら、日本の世論は「支那を撃つべし!!」と激怒沸騰しました。この時も日本軍は隠忍自重し、本格的な戦端を開こうとはしませんでした。やはり、支那との全面戦争を欲していなかったからです。しかし支那は、8月13日、上海租界の日本人居留民を警備・保護する目的で駐屯していた日本海軍陸戦隊に対して、国民党正規軍10個師団(20万人)もの大兵力を配置して、攻撃してきたのです(第二次上海事変)。海軍陸戦隊は、警備を主任務とする小規模軍隊です。その海軍陸戦隊が国民党正規軍(本格的な戦闘をする軍隊)10個師団を相手に、到底持ち堪(こた)える訳がありません。「帝國臣民ヲ保護スヘシ」として、上海租界の日本人居留民「保護」を任務としていた海軍陸戦隊は、遂に陸軍に対して派兵を要請。8月15日、蒋介石が「対日抗戦総動員令」を発令した同日、日本海軍機が南京を空爆し、遂に8年もの長期に及ぶ全面戦争 ── 「支那事変」(日華事変・日中戦争)へと発展していったのです。
ーーーーーーーーーーhttp://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/tsushu.html

> > 南京事件に関しては、蒋介石の国民政府軍のことです。
>
> なるほどね、そう言う事ははっきりとしときましょうね。八露軍の徹底した軍紀による軍政下の善性が八露軍支持に人民を大きく傾かせた事などがあいまいになりますからね。

その八路軍が、盧溝橋事件の引き金を引いたという説もありますが。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
中国共産党謀略説は北京大学図書館に潜っていた中国共産党北方局第1書記の劉少奇の司令だというもので、東京裁判時から出ていたが、さらに戦後八路軍に身を投じた元軍人(葛西純一)による編訳『新資料・盧溝橋事件』に書かれていたり、戦後の人民解放軍兵士の教育用テキストにも中共が事件を引き起こしたとの記述があったといわれ、信じる人も多いが、いずれも確証がない。
ーーーーーーーーーーhttp://www.mainichi.co.jp/life/family/syuppan/chronicle/1937_45_1.html

その八路軍(中国人民解放軍)ですが、党の軍隊というのは恐ろしいですね。

ーーーーーーーーーーーーーー
中国と言えば人の数にモノを言わせた人海戦術が得意なイメージ通り、本書によると解放軍の行動は人海戦術そのものであったらしい。ロクに砲兵、工兵を持たない彼らは朝鮮戦争の最中、敵陣や地雷原を突破するために第一陣の兵士は次々に地雷に吹っ飛ばされ、それでもひるまず突撃していったと言う。その後の第二陣が目的の敵陣を蹂躙するのであった。イメージ的にはもののけ姫に出てくる猪さん連合の突撃みたいな感じであろうか?
ーーーーーー
武器を各村で自給させる目的で推進した土法炉は実施前より30%も鉄の生産量を引き揚げたらしい(あくまでも公称値)が多くの山々の木をなぎ倒し、黄河上流部を疲弊させ、多くの餓死者(数百万人規模と言われるが詳しい数値はいまだに分からない)を出した。
ーーーーーーーーーーhttp://tuzissan.fc2web.com/tyuugokuzinminkaihougun.html

ーーーーーーーーーーーーーー
1950年の中国人民解放軍によるチベット侵攻以降、中華人民共和国の占領下よる犠牲者は、ラサ・チベット亡命政府の推計によれば、虐殺された人数に戦死者、強制収容所での死亡者、餓死者を含めるとその数120万人に達するという。
ーーーーーーーーーーhttp://www1.u-netsurf.ne.jp/~TIBET/tibetp.htm


☆以下はオマケ

山中貞雄(映画監督)の手紙です。
「揚子江岸に上陸して南京入城に至る迄の一ケ月間はまことに、はや、タイヘンなもンでした。幸い悪運強くも無事で居ります。御安心下さい」(1937年12月22日)
「開封と云う町は想像以上に立派なところで、何でも町の有力者が支那軍の隊長に何万かの金を与えて軍隊を町から撤退させたので町も余り荒れてないそうです」(1938年8月15日)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000072/files/2320.html

「「人情紙風船」の完成試写の日に召集令状を受け取ります。その時手が震えてたばこに火をつけることが出来なかったそうです。「『人情紙風船』が俺の最後の作品では浮かばれんなァ」と呟いたといいます。多くの仲間と別れを惜しみながら10月に中国戦線へと旅立ちます。」
「昭和13(1938)年のはじめ、山中貞雄は南京のはずれの句容で小津安二郎とあう。将来作りたい映画の話などをして別れたそうです。7月に入り急性腸炎を発病。中国軍の黄河決壊作戦による洪水でかなりの水を飲んだことが原因と山中は手紙に書いています。病状が変わることはなく、9月17日午前7時死亡。28歳10ヶ月の生涯でした」
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shadow/doyouknow.htm

小津安二郎も「南京事件」のときその地に居合わせたんでした。