30529 | 返信 | Re:フランスの歴史修正主義 | URL | 前田 朗 | 2004/11/01 17:59 | |
「幼稚な歴史修正主義者」といった表現を見るや、ただちに自分のことだと直感的に判断して、反発なさる方もいるのですね。お前こそ幼稚だといった、子どものけんかが好きなようです。「幼稚な」という言葉を先に使ったのは私のほうですから、表現が適切ではなかったことを、傷ついた方にお詫びしておきましょう。 それにしても、いまだに左翼だ右翼だという図式でしか物事を考えられない人がいるのは新鮮な驚きです。誰の迷惑になるわけでもないので、それこそ「表現の自由」ですが。 歴史修正主義をめぐる著作を1冊ご紹介しておきます。 ロバート・イーグルトン『ポストモダニズムとホロコーストの否定』(岩波書店、2004年) 本書は「ポストモダン・ブックス」シリーズの1冊です。原著は2001年出版。オビの宣伝文句は「歴史家をよそおう者たち/執拗に世間の耳目をひこうとするホロコースト否定論者。歴史へのポストモダン的問いかけによって否定論の正体を暴きだす」となっています。 著者はロンドン大学講師で、専攻は現代文学・文学理論、ヨーロッパ哲学だそうです。 本書は、「アーヴィング裁判」を手がかりに、ホロコースト否定論者が、歴史学上のいかなる根拠もなしに、しかし、あたかも歴史学者であるかのようによそおって、世間をだます手口を批判しています。アーヴィング裁判とは、アメリカのデボラ・リップシュタットが『ホロコーストを否定する――真実と記憶に対する高まりゆく非難』という著作で、イギリスのデイヴィッド・アーヴィングを「ナチスの擁護者」だとして批判したことを、アーヴィングの側から名誉毀損で訴えた裁判です。裁判の結果、アーヴィングがまぎれもない「ナチスの擁護者」であることが判明するのですが。 この裁判と論争のさなかに、ポストモダニズムがホロコースト否定論に利用されている問題が浮上したため、イーグルストンが、ポストモダニズムがホロコースト否定論ではないことを論証するために書き始めた本です。そして、イーグルストンは、過去を研究することとは何であるのか、いかなる営為であるのかを、「知ることと語ること」、「誰が歴史を創造しているのか」といった論点に即して検討し、ポストモダニズムの問題提起は「親」歴史でもなければ「反」歴史でもないとしています。リオタールのメタナラティヴの応用を試みているのです。著者の結論は次のようなものです。 「ポストモダンであるということは、私たちが暮らしている文化は、植民地主義およびポスト・コロニアルな世界史の結果として、多元的な文化であるのだ、と気づくことでもある。多元文化社会は、さまざまな文化が単一の文化へと同化していく社会ではない(複数の文化を創造的に混ぜ合わせると、すばらしいことが生じはするが)。そうではなくて、さまざまな伝統同士が尊重しあい、交渉するという文化なのだ。すでに論じたように、ホロコースト否定論者はこの多元的な文化に嫌悪感を抱いている。たとえば、アーヴィングは確かにそうである。私たち、すなわちこの多元的な文化のなかに暮らし、参加している者が義務としてなすべきことのひとつには、いつどこで見つけようとも、この憎しみと戦うということも含まれる。ホロコースト否定論は、この戦いの数多い戦線のひとつである。戦うためには、私たちがホロコースト否定論の真の姿を、すなわち、欠陥のある歴史ではなく、どう見ても歴史ではなく、反ユダヤ主義の人種嫌悪に貧弱なカモフラージュがほどこされたものなのだということをはっきりと理解していることが重要である。」 ホロコースト否定論、歴史修正主義は、ずっと以前から反復的に登場してきましたが、1990年代に新しい姿をとり始めたことはよく知られるとおりです。「冷戦終結」によるパラダイムの変化や、社会科学方法論における相対化の自覚的な展開がありましたから、いわば「あらゆる歴史が歴史修正主義」という様相を呈し始めました。ホロコースト否定論がこれに便乗したことはいうまでもありません。利用されたもののひとつがポストモダニズムだったということでしょう。 なお、本書の解説はイ・ヨンスク(一橋大学教授)で、「読書案内」も付されています。もちろんバスティアン『アウシュヴィッツと<アウシュヴィッツの嘘>』、ヴィダル=ナケ『記憶の暗殺者』、フリードランダー編『アフシュヴィッツと表彰の限界』、レーヴィ『アウシュヴィッツは終わらない』、高橋哲哉『戦後責任論』、同編『<歴史認識>論争』、米山リサ『暴力・戦争・リドレス』などが挙げられています。そして、解説者は、イーグルストンはポストモダニズム擁護にばかり関心を寄せているため、否定論の暴力性に十分自覚的でないことを指摘して、さらに一歩前進しようとしています。 |
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