30534 | 返信 | Re:自主的思考の放棄と個人崇拝 | URL | 若 | 2004/11/01 22:00 | |
またにゃ何とかという人が、懲りずにでたらめなことを書きなぐっているようです。子供じゃないんですから、一回注意されたら反省すればいいのに、と思うんですが。 > > 残念ながら、にゃ5さんは自主的思考を放棄し、ドグマに固執するだけなので生産的議論が成長しませんでしたね。論争を読みもしないで「Ленин(Lenin)が正しかった」と主張するだけでは何の進歩も見込めません。 > > うーん、こういうのは失礼だと思いますけれど、ドグマに固執しているのはあなたではないかと思います。一応、あなたは「マルクスやエンゲルスがオスマン帝国を支持し、オスマン帝国に抑圧された南スラヴ諸民族を支持しなかったのは、誤りだ」とは言いましたけれど、マルクスやエンゲルスが「被抑圧民族であれば支持されるべき」というような主張はしていないとか、あるいはチェコ人やクロアチア人を「生来の反革命的民族」と呼んで、彼らへの抑圧を支持していたという事実のみを強調し、ソ連・東欧諸国の共産党政権がなぜ崩壊したのか、なぜソ連の連邦制が(イギリスやフランスの植民地帝国が崩壊したことと、全く同じように)崩壊したのか、という歴史的事実からの教訓から目をそらしているように思います。 > 大切なことは、マルクスやエンゲルスを現実の社会に適応させていくことであって、「マルクスやエンゲルスの民族論」をそれこそドグマ的にふりまわすことではないと思います。 にゃ何とかは自分がレーニンの主張を持ち出しておいて、簡単に論破されるとそれにほおかむりして他人をドグマティストと決め付ける手に出たようです。やり方がせこいですね。というか、「エライ人の言説」を利用して他人の言説を押しつぶそうとした自分のやり方についての反省は何もないようです。 肝心なのはここからです。にゃ何とかには理解できなくても仕方ないのですが、問題はマルクスが、レーニンがどういったということではなく、「民族自決と社会主義のどちらの原理が優先されるのか、両方が対立するような状況が起こったらどうするのか」ということにあるんです。森永さんの答えは明快なもので、「社会主義が完全に優先する。民族自決は社会主義の実現に有益な限りで認められる」というものです。結論が妥当なものかどうかはともかく、論理的には一貫しており、答えとしては明快です。ところがにゃ何とかは問題の性格がよくわかっていないために、「マルクスやエンゲルスを現実の社会に適応させていく」ことが大切、などという現実的に何の意味もないようなことをいって、それで答えたつもりになっているのです。この点ではとほほ(この人の書く文章は読んでる方がとほほほほ、といいたくなるようなものばかり)も同じです。 繰り返しますが、問題は、社会主義と民族自決は両立するのかどうか、しなかった場合はどうするのか、です。これがわからないから、「自主的思考を放棄している」と揶揄されてるわけです。 > > 「被抑圧民族は常に正しい」などという根拠のない主張は、科学的思考とも史的唯物論とも無縁のものです。 > > チェチェンに関しては、林克明著『カフカスの小さな国・チェチェン独立運動始末』(絶版だが、図書館などで入手可。小学館)や林克明・大富亮著『チェチェンで何が起こっているのか』(高文研)、アンナ・ポリトコフスカヤ著『チェチェン・やめられない戦争』(日本法曹出版協会)などがありますが、チェチェン側の死者は全員が「ワッハーブ派の宗教独裁」を要求する人達だというわけでしょうか? > それは、イラク戦争におけるイラク側の死者を全員、「アルカイダの支持者」とか「サダム・フセインの支持者」と呼ぶにも似たふるまいかと思います。 こんなことを持ち出しても、問いに対する論理的な関連が欠けているので意味がありません。問題は、チェチェンの独立主義者が勝って実際に独立が実現した場合、それがイスラム主義の体制になるのかどうか、それとも別の体制ができるのか、です。いまのところは前者の可能性が高いと見るべきでしょう。「全員ワッハーブ派だという証拠があるのか」なんて、まるで子供の屁理屈でしかありません。 > チェチェンでは、ロシア軍は、村々を包囲・砲撃・破壊し、家々を襲撃し踏み込み、老若男女を問わず無差別に暴行・略奪・レイプし、拉致し、穴牢に監禁し、拷問を加え、虐殺し、死体を遺棄しているといいます。94年以来2次10年にわたるチェチェン戦争と軍事占領のなかで、25万人が虐殺され、40万人の難民が生じています。あなたは、こういうことをもっと徹底して行なうべきだとお考えなのでしょうか? > チェチェンの油井とパイプラインはいまやロシア連邦軍とマフィアの非合法支配のもとにおかれ、ロシア軍が警備し、マフィアが採掘・抜き取りし、精製・販売しているといいます。 > あなたは、ソ連崩壊への引きがねの一つであったソ連のアフガニスタン侵攻、この侵攻が米軍による「ベトナム戦争」と同じ「泥沼」となったことについては、どう総括されていますか? > 歴史をつくるのは、一人一人の名もない市民であって、特権的なインテリ層ではありません。ファシストでも極右でも歴史修正主義者でも差別排外主義者でもない、ごく普通の人民に対して、暴力や脅迫的手段で服従させようという手法は決して長続きしません。 にゃ何とかはロシア軍の残虐性を持ち出して問題をそらしているのです。ロシア軍の残虐性は周知の事実で、それ自体は問題とするに値します。しかし、「歴史をつくるのは、名もない市民」とか、何の意味もないことを持ち出して話をごまかすのはにゃ何とかの得意な手口です。当たり前ですが、いかなる大虐殺も、歴史への反動もそれを実行したのは「一人一人の名もない市民」なのです。昔、共産党は専制君主の作った歴史的建築物に価値はあるのかどうかという問題に対して、「作ったのは人民だから、作られたもの自体は善である」といっていました。それと同様の幼稚な論理です。 > そもそもロシアの戦争目的を「近代化」と考えること自体、根本的に甘いし、それに「近代化」や「世俗化」「民主化」につながるのなら、侵略戦争を肯定するという発想はイラク戦争でのネオコンに通じるものがあります。 甘ちゃんで何もわかっていないのはにゃ何とかです。ではチェチェンの独立派が勝てばチェチェンはどうなるのか?それに対する答えがないのに、ロシアの行為だけを批判しても何の意味もないのです。 > > 「森の兄弟」は、ナチスに協力したファシストです。ソ連政府がこれを徹底的に掃討したのは当然です。それとも、ファシストであっても反ソなら支持すべきということでしょうか。 > > あなたの論理だと、東南アジアの民族独立運動家のなかに、旧日本軍に協力した経験のある人達がいるのなら、東南アジアの国々は永遠に英帝、仏帝などの植民地にとどまらなければならないということになります。 問題をごまかしています。実際にバルトやウクライナで枢軸軍に参加した兵士は、ドイツの勝利のために戦っていたのです。彼らは結局負けて銃殺されるか収容所に放り込まれるかしたわけですが、ならば彼らが勝っていればどうなっていたのかということです。ドイツの支配の下で平和で民主的な独立国家ができたとでも夢想しているのでしょうか。 > そもそもナチスはポーランド人やロシア人などのスラブ民族を決して「アーリア民族の一員」とは考えず、アジア人であり、ユダヤ人につぐ劣等民族(ウンテルメンシェン)とみなしていました。ナチス・ドイツの戦争目的は、バルト海からポーランド全域などのスラブ系民族の居住地域、とりわけウクライナの穀倉地帯を奪取して、そこにゲルマン民族を入植させることにあったのです。ロシア人とウクライナ人に対しては、「抵抗運動の核になりうる知識人層」を虐殺し、残りは奴隷国民となるために、ごく初歩的な教育と農業訓練しか受けられないものとされていたのです。 > つまり、ウクライナなどの民族自決など、最初からヒトラーの眼中になかったわけです。いっぽう、ナチスの軍隊が1941年6月22日に、ソヴィエト連邦に侵攻すると、自ら志願してナチスに協力するバルト三国やウクライナの住民がいたことは事実です。その原因として、ナチスへの認識不足があります。ユダヤ人ですら、多くはソ連当局の勧めにもかかわらず避難せず、自発的に残留すらしました。これは、年配の人のなかに第一次大戦当時のドイツ人の記憶が残っており、恐れを抱かなかったからです。彼らは、ドイツがどのように変貌したのかを知らなかったのです。 > そして、ここで重要なことは、ウクライナ人などのなかに存在する反ユダヤ主義の感情が引き出され、ユダヤ人虐殺への加担・協力が行なわれたことです。 > 帝政ロシアのもとで被抑圧民族の地位にあったポーランド人やウクライナ人は、ユダヤ人に対しては抑圧民族としてのふるまいを、歴史的に行なってきました。同じように、ロシアや東欧などで被抑圧民族だったユダヤ人も、パレスチナでは抑圧民族としてふるまっていますし、アラブ人もパレスチナでは被抑圧民族ですが、クルド人やスーダン西部や南部のアフリカ系住民に対しては、抑圧民族としてふるまっています。中国人(漢民族)も、日本に対しては、歴史的に被抑圧民族だが、チベットやウィグルなどでは抑圧民族として現れています。 これも意味のない事実をならべて問題をごまかす手口に過ぎません。ドイツが、反ソ民族主義を自国の目的に利用したのは当たり前です。問題はそれに乗っかって、ドイツに協力した反ソ運動のやったことはどういう歴史的評価に値するのかどうかです。ドイツを非難したところで、ただちに「だから反ソ運動はよかった」という結論にはならないわけです。にゃ何とかには論理というものが理解できないので、いつまでたってもこの調子なのです。 > そして、当然のことではありますが、抑圧民族としてのふるまいは、決して被抑圧民族として受けた仕打ちを帳消しにすることにはつながりません。 いったいこれで何か意味のあることをいっているつもりなんですか?森永さんはきちんと勉強した上で発言していますよ。「勉強したつもり」のにゃ何とかとはそこが違うのです。 |
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