30576 | 返信 | Re:「百人斬り」が法廷で争われることの意味。(八木沢さん) | URL | 渡辺 | 2004/11/03 23:51 | |
これは、八木沢さんの『30306 Re:「百人斬り」が法廷で争われることの意味。』2004/10/24 http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_plain?base=30306&range=1 に対する返信です。 --- わたし:> > >八木沢さんの言う「貧困」な「裁判観」でも、複数の本人訴訟を起こして完全勝訴しているので、一応現場では役にたつと言っておきましょう。ちなみに、弁護士を立てた場合は、「裁判観」も知識も必要ありません。しかし、証拠は自分で探してくるんですよ。 八木沢さん:> > 「弁護士を立てた場合は裁判観も知識も必要ない」とのことであるが、渡辺氏と私が今おこなっているのは裁判でなく「裁判についての議論」である。裁判についての議論をしようというような人間が「裁判観も知識も必要ない」はずがない。 なんか、投稿のたびに内容がずれているようですよ。 「貧困な裁判観」「無知・無理解」と言ったのは、あなたです。 八木沢さん:> > 渡辺氏の貧困な裁判観を繰り返し指摘させていただいているが、それを打ち消すことのできるレベルの反論は一切無く、ますます無知・無理解をさらけ出す傾向に拍車がかかっている。大変不思議である。 そういうご指摘を甘受しても、一応現場では役にたつ程度の「貧困な裁判観」「無知・無理解」だと、ここまで解説しなければいけないんでしょうか。 >そもそも、「訴えたり訴えられたりしたときには代理人をたてたほうがよい」というのも、立派な「知識」である。 私のことを「無知・無理解」だと言う一方で、『立派な「知識」』もある、ということですか?! たとえていうなら、病気のときは医者へ行くというのが、医療の『立派な「知識」』でしょうかね。どうでもいいことですけど。 > >支援集会に「弁護士と一緒に喜んで出かける」ことに何か問題でも? > > 私は「法廷から逃げ回っている」ことを批判したのであって、「支援集会の場合には弁護士と一緒に喜んで出かける」という例を出したのは、先に渡辺氏が「逃げ回っている」の意味がわからないといったからである。支援集会に弁護士と一緒に出かけたこと自体が問題になるはずもないことなど分かりきっていることで、私の書いた文章を不自然なところで切ってくだらないレスをつけてセコい印象操作を試みても、笑われるのは渡辺氏である。 支援集会に「弁護士と一緒に喜んで出かける」ことと、弁護士をたてて訴訟をするということは、常識的に別のことですから、分けてお話しいたしました。 ご主張を整理すると、 1)支援集会に「弁護士と一緒に喜んで出かける」 2)訴訟を代理人に依頼する こういうこと個々には問題がない。 ところが、1)と2)が、同時に起ると、被告が「法廷から逃げ回っている」ということになると、こうおっしゃるわけです。 しかし、支援集会に「弁護士と一緒に喜んで出かける」のは、訴訟になっているからこそ「弁護士と一緒」であるし、支援集会も開かれるわけです。ということは、「2)訴訟を代理人に依頼する」という前提がなければ、『1)支援集会に「弁護士と一緒に喜んで出かける」』こと自体が存在しえません。 要するに、『1)支援集会に「弁護士と一緒に喜んで出かける」』ことが問題で、それを被告が「法廷から逃げ回っている」と、八木沢さんは言っているわけです。ややこしいロジックを使って「セコい印象操作」をしているのは八木沢さんじゃありませんか。 > >誰も普遍的なことなど言ってないけど...私の投稿をきちんと読んでくださいね。訴訟は証拠で決まります。信念でやってもダメ。しかし、相手に対する嫌がらせにはなるが、まっとうな人のすることではないと言っているのですが、ご理解いただけませんか。 > > 「裁判は嫌がらせ」という、明らかに異常で、とても普遍的な主張になりえないことを渡辺氏が述べていると私は批判しているので、「誰も普遍的なことなど言ってない」との反論は、的外れである。「私の投稿をきちんと読んでください」とは、こちらのセリフである。「訴訟はまっとうな人のすることではない」などという特異な主張を、「ご理解」などできるわけがない。 どうも困った方ですね。私の発言を改竄して、むっちゃんこ書かないでくださいね。 あなた:> 「信念に基づいて提訴するのはダメだ」という意味に受け取ってよろしいのだろうか。 わたし:> 一応書類が整っていれば訴訟は受付けてくれるから、それらしいものを証拠につけておけば何千円かで被告に嫌がらせはできるね。相手に弁護士費用を使わせれば、打撃を与えたことにはなるから、そういうレベルではダメではありません。しかし、ちゃんとした証拠がなければ敗訴確実で、まっとうな人がやることじゃない。そういう意味でダメだね。 [http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_plain?base=30022&range=1] 私の発言を捻じ曲げ改竄して、『「裁判は嫌がらせ」という、明らかに異常で、とても普遍的な主張になりえない』などと、八木沢さんは投稿しているわけです。 そういえば、あなたは「返信」をクリックして返信していませんね。[枝分かれ式一覧表示]で過去ログから発言をスレッド表示できません。できたら「返信」頁から返信してください。 > 「死者の名誉毀損を認めるか否かの裁判である」という間違った前提が当初流布されていた、というのは事実である。そして、渡辺氏が「原告が事件を体験したのでもなく、被害の状況も知らない」という発言をしていることから「原告=被害者」という認識をもっていないことも明らかであり、「被害者はもう死んでいる」という「間違った前提」と密接な関係がある。 私の発言を間違った脈略で引用しないでくださいね。 あなた:> わざわざ「ほとんどの場合加害者の刑事上の有罪が確定する前に提起」と前置きしてあるにもかかわらず「あなたが例にあげているような刑事事件なら犯罪行為が行われたことは歴然としている」と断言している根拠は何なのか。最近話題になった藤沢の宝石店員への殺人放火事件の一審判決もそうだが、刑事で無罪、民事で有罪判決などという例だってあるのに。 わたし:> 原告が事件を体験したのでもなく、被害の状況も知らないのに、どうやって加害者や被害の内容を立証できるんですか、ということを言っているんです。 わたし:> ちなみに、刑事事件では証拠を警察にもって行かれるので、被告が原告の主張を認めた場合以外は、普通は刑事の裁判が終わらないと民事のほうは難しいでしょう。 これは一般論でしょうが(−−; 一般論を百人斬り訴訟とドッキング、各論を一般論と曲解、これは、もう議論とは言えん。 > >言論の場はジャーナリズムだけではありません。研究書やインターネット、講演、演劇など、いくらでも発表の場はあります。ところで、『岩波国語辞典』によれば、言論とは「言語や文章によって思想を表現し発表すること」となっています。裁判所が、思想(論考なども含まれるでしょうが)を表現したり発表する場でないことは確かです。 > > 今回の「言論とは何か」「裁判所は言論の場か否か」の議論のそもそもの発端は、渡辺氏が『稲田弁護士と阿羅健一氏に「言論で論理で戦え」と言ってあげてほしいものです』と述べたことに始まるわけだが、そこで使われた「言論」に、遡って今回の『岩波国語辞典』の定義を当てはめよと要求しているわけか。認められるわけがないだろう。何を考えているのだ。 何を考えているのだと言いいたいのは、こっちだよ。 あなた:> 最初から「ジャーナリズムの世界でのみ戦え」と言えばいいものを、自分自身で正確な定義付けもできていない「言論」などという言葉を使うからこういうことになるのである。 わたし:> 言論の場はジャーナリズムだけではありません。研究書やインターネット、講演、演劇など、いくらでも発表の場はあります。 わたし:> ところで、『岩波国語辞典』によれば、言論とは「言語や文章によって思想を表現し発表すること」となっています。裁判所が、思想(論考なども含まれるでしょうが)を表現したり発表する場でないことは確かです。 >教育現場はどうか。 そこは教育の場でしょう。 例えば、教育現場で国旗・国歌について「言論」で何か決めてますか?この問題について、東京都の教育現場で「言論」が認められてますか?それでも、教育現場に変わりない。 > 裁判所が「言論の場ではない」(思想・論考を表現したり発表する場でない)のなら、一体何の場なのか。 紛争の解決を国家機関に委ねる訴訟の場です。ちなみに口頭弁論を言論とは呼ばない。 >渡辺氏は稲田・阿羅氏がどこで戦えば「言論で論理で、戦っている」と認定するのか。 新聞、雑誌、研究書、インターネット、講演、演劇など、いくらでも場はあります。 >この問題が「1970年代で決着がついている」というのは、明らかに事実に反するように思われるが、そう述べる根拠はどこにあるのか(いつ、だれが、どこで、どのような方法で決着をつけたのかを具体的に述べよ)。 「1970年代には決着が付いている議論」とは、イザヤ・ベンダサンこと山本七平と本多勝一の議論(本多氏は議論に値するとは思っていなかったらしいが)で、議論が出尽くし 1972年に終結したものです。山本七平氏は「虚報」と鸚鵡返しにするだけで議論は終わりました。1972年7月29日付『週刊新潮』を見れば、イザヤ・ベンダサンが論破されたことは明らかです。『「南京百人斬り」の"虚報"で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形』と題し、浅海記者を非難するこの記事が、百人斬り記事は虚構と言うかと思えば、次のように書いています。 「記者たちの恣意による完全なデッチ上げ、という形はまずないと見るべきであろう。死者にはお気の毒だが、二将校の側もある程度、大言壮語したのだと思われる」(p.36) 当事者の佐藤振壽、浅海一男、鈴木二郎の各氏がいずれも、インタビューに答えて、二将校から百人斬りをしているという話しを聞いたと証言したので、イザヤ・ベンダサンの虚報説は成り立たないことがはっきりしました。そして、イザヤ・ベンダサンは、舞台の奥に引っ込んでしいました。本多氏はその前に、もうお付き合いはできないと議論の終息宣言をしていました。 しかし、イザヤ・ベンダサンとはまるで他人かのように装った山本七平氏が、この記事をみて、半年前には事実とされていたことがいつのまにか当然のように虚報とされている、として本多氏の攻撃を再開しました。掲示板でいうなら、ハンドル名を変えて論破されてしまった議論をリセットし、議論を再開しようとしたことに相当します。これに対し、本多氏は山本氏を相手にしたことがないようです。 しかし、執拗な攻撃に対し、1977年に『ペンの陰謀』を編纂、各界の論者がコテンパンに山本氏を批判しました。当事者であり汚名を着せられた浅海、鈴木記者も、百人斬り記事は人から聞いたものでデッチアゲなどではないと寄稿しました。また、イザヤ・ベンダサンこと山本七平のレトリックは、ノンフィクションの柳田邦夫、ディベートの松本道弘らによって徹底的に、そのでたらめぶりが批判されました。(ちなみに、本の題名の「ペン」は序文によればペテン師という意味。) これが、本多勝一氏のお相手した議論です。 山本氏の"巧みな"レトリックや言葉のトリック、ディベートの反則技によって議論の体裁になっていたものです。今になって訴訟で争うような問題ではありません。また、イザヤ・ベンダサンこと山本七平氏のレトリックは訴訟においては通用しません。 訴訟は山本七平・鈴木明氏が故人となったことに関係しているのでしょう。いずれかが健在であれば、議論の当事者で議論するのが本来だと多くの人が考えます。もっとも、議論するための新しい材料はなかったので、議論などできない状態でした。しかし、山本七平・鈴木明氏が故人となり、本多勝一氏のみが現役のため、あたかも本多氏ひとりが百人斬り競争を議論していたかのように原告は言っているわけです。 結局、原告はどういう事実を主張しているのか論点がいっこうにはっきりしません。 そのかわり、"証人"を多数申請しています。証書によって争点が明らかにされていない状態で、多数の証人申請をするなど常識では考えらないことです。争点不在の証人申請を裁判所が認めないことについては、「無知・無理解」な私でも断言できます。 >正真正銘の「言論の府」国会において作られた法律について、「言論の場ではない」最高裁判所は違憲審査権をもつ。このことを、渡辺氏は不当と考えているのか、どうか。 法律が不当かどうかなんてことは、言うてまへん。言論が存在すると「言論の場」になるのではありません。八木沢さん流にいうならば、自分自身で正確な定義付けもできていない「〜の場」という言葉を使うから、こういうややこしいことになるのである。 以上。 |
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