30602 | 返信 | Re:「百人斬り」が法廷で争われることの意味。 | URL | 八木沢 | 2004/11/05 00:37 | |
私が「貧困な裁判観」「無知・無理解」と評したことにカンカンになっておられる様子の渡辺氏であるが、いくら彼が私生活でそれを打ち消すほどの活躍をしておられようと、事実か否かの確認のしようがないし、所詮我々はこの掲示板で彼が書いたことのみをもって判断するしかないことは前回も述べたとおりである。渡辺氏は違う言い回しで同じことを繰り返し主張しているだけであるが、「投稿のたびに内容がずれている」としても、それは私だけの責任ではない。例えば、「訴えたり訴えられたりしたときには代理人をたてたほうがよい」というのも立派な知識だ、と私が述べたことに対して彼は、 >私のことを「無知・無理解」だと言う一方で、『立派な「知識」』もある、ということですか?! と揶揄?してみせるのだが、渡辺氏が『弁護士を立てた場合は、「裁判観」も知識も必要ありません』と発言したことを受けてのことなのだから、私が「本人訴訟で完全勝訴」の彼自身のことを指しているわけがないことは明らかである。こういう細部のごまかしの積み重ねが、内容のずれを生じさせるのである。 「裁判はイヤガラセ」についても、「そんなことは言っておらず今回の訴訟のみを指しているのだ」という意味のことが言いたいようだが、そのほうが余計に問題だということにお気づきでないらしい。訴訟を起こすことは憲法上の権利であることは最初に触れたとおりである。正当な裁判、不当な裁判を選別する資格など渡辺氏にはない。 1970年代に本多勝一被告が主な執筆の舞台としていたのは創価学会の機関誌「潮」であるが、その発行元である潮出版社が発行した「ペンの陰謀」を、私の「いつ、だれが、どこで、どのような方法で百人斬り問題の決着などつけたのか」の質問に対する答えであるかのように紹介しているのも理解に苦しむ。「潮」はこの問題の一方の当事者でしかないし、まさにこの時代に「解決」した日中国交回復にコミットして以来現在に至るまで一度たりとも公明党=創価学会が中華人民共和国に批判的であったことはないわけで、「潮」がこの問題に中立的なジャッジなど下せるわけもない。このすぐ後には朝日新聞論説委員(非創価学会員)の公明党からの参院選出馬(当選)という怪しげな動きもあったが、それに加え、潮ノンフィクション賞の審査を筑紫哲也氏がしていることや、聖教新聞の印刷を請け負う地方紙の批判だけは絶対に避けていた鎌田慧氏の連載「地方紙の研究」を始め、山口二郎、浅野健一氏他多数の「週刊金曜日」系文化人が今でも「潮」や「第三文明」で執筆を続けている事実など多少物事を見る力があれば「癒着」の匂いを感じて当然だと思うのだが。 いずれにせよ、このたびの裁判が本多・山本論争のジャッジを下す目的のものでなく、あくまで両少尉の遺族の名誉回復を求めたものである以上、無関係な言及であることにかわりはない。 |
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