30658 返信 某「むさくるしい」男の「恋愛の自由」観。 URL 八木沢 2004/11/08 15:03

 女も果実も腐る寸前が一番美味いのであり、ピークを過ぎて崩落へのカウントダウンを読み始めたたとえば井川遥、戸田菜穂なんかを今のところ俺は最も好むわけで、「12歳の少女と恋愛したい」などと露骨なことを書くわけがなく読み間違いとしか思えないが、今後はどうなるか分からないし、私自身を除外した書き方をしていないので、名指しされたものとして責任を取ってこの問題をさらに考えたい。所詮は自由などとは、現実には自分勝手な世界観を正当化するための方便に過ぎないのかもしれないが、「恋愛の自由」「婚姻の自由」といえば、あくまで「自由」なのであって、自由という以上は原則的に抑圧は許されない。16歳で線を引くのか12歳で線を引くのかというのは文化的・時の政策的な判断に過ぎないと私は考えるが、狭いようで広いこのニッポンには、裁判を受けるという、世界人権宣言にも日本国憲法にも明記され大日本帝国憲法にすら認められていた権利にすらグダグダ能書きを加えてケチをつける人間がいるくらいであり、漫画を発表する自由はあってもその内容に抗議する自由はないと考える漫画的な人間もいるくらいであるから、それらと比べればはるかに重要度が低く見え、かつタブーを大きく抱える「性」の領域に関してはヒステリックな反論や抗議をそれらより大規模に招くのも必然といえよう。しかし今回の工藤氏の逆上について、所詮彼の限界は「父親」「保護者」の論理のみを持ち出さざるをえないことだとまず私は思うのだが、しかし権利や自由を主張すればほとんどの場合他の権利との衝突を招くわけで、その衝突された側の権利を絶対視する側にとっては「侵犯者」を彼らなりの方法によって成敗することはありえることだから、自由を主張する者はその自由のために命を落すことも覚悟した上でやるべきだと私は考えている。法が認めた自由は法によってのみ守られる建前があるだけの話であり、法やシステムの埒外にある煩悩の混沌からも100%守られるとは少なくとも私は思ってない。工藤氏がそれなりの覚悟を抱いてのことなら受けて立たねばならないだろう。何のために死ねるか、の命題にかつて三島由紀夫は「三種の神器」、石原慎太郎は「自由」と答えたが、その時代や社会にとって非常識な自由を主張した多くの人間が命を落してきた歴史が現実にある。その理念とは無関係に、自由に対する抑圧者としてどうやら名を残しそうな石原のかわりに、不肖私がその屍の列に並ぶことが出来るなら大変光栄なことだ。工藤氏の気の済むまでやってくれたまえ。ちょっとした言葉尻をとらえたことで的外れな相手を暗殺する羽目になった山口二矢の姿を見ているような気はするが。