30659 返信 Re:「百人斬り」が法廷で争われることの意味。/創価学会。 URL 八木沢 2004/11/08 15:12

 渡辺氏。  

>本多勝一氏が創価学会と関係があるかどうかなど興味はありませんし、出版社がどこかということと、百人斬り競争にどういう事実があったかとは関係がありません。

 渡辺氏は「百人斬りは70年代に決着がついている」という。その根拠は、当時本多被告の大口取引先だった創価学会の出版部門・潮出版社から出された『ペンの陰謀』だという。当事者から出された一方的な主張、しかも罵詈雑言で有名な潮出版社の書籍を論争のジャッジとみなす非常識さを薄めるのが「ディベートの松本道弘」の存在であろうが、松本氏によって「徹底的に、そのでたらめぶりが批判されました」との渡辺氏の説明も、しかし松本氏の原稿は『潮』サイドによって大幅に改竄されていたという指摘が一方では存在しているし、これに対する当の松本氏のコメントという触れ込みの文章(http://www1.jca.apc.org/aml/9906/12457.html)が数年前から公開されていることと併せて総合的・客観的に、少なくともその部分は評価するべきであろう。松本氏は、「本多氏にとって有利なように引用されたために、私の審判が曲解された」と述べている。

 その上で渡辺氏は、本多被告と創価学会の関係になど興味はないといい、出版社がどこかということも内容の真実性とは無関係だという。こういう都合のいい主張が果たして第三者の理解を得られるだろうか。たとえば、天皇については敬愛して当たり前、改憲をした上でさらにその力を強めることを国民が望んでいるということは「70年代にすでに決着がついている」としてその根拠は『戦後の天皇擁護論』(日本教文社、1970年)だ、などという主張がされたとして一体誰がまともに相手にするのか。もちろん、この本の資料的価値は大きく私個人的には学ぶことも多かったが(ちなみに、日本教文社は『生長の家』の出版部門)。渡辺氏のそっけない態度は、二つの訴訟の担当弁護士が同じだったことのみを根拠に、「最近は歴史歪曲を組織的に行おうとする傾向がある」と大袈裟に断言してみせた同じ人物のそれとは到底思えない。日本最大の圧力団体の怪しげな動向に無頓着な一方で、訴訟二つだけで「組織的な動きがある」といきり立つ。これを一般に「御都合主義」というのである。本多被告による創価学会批判は数少ないが、その珍しい学会批判の一つ『週刊金曜日』2000年2月25日号『風速計』は、創価学会に挑発的なタイトルの反面、内容はそれとほとんど無関係な記述が並び、一体何が言いたいのかさっぱりわからないことから一部で話題になり、創価学会について何かを語ろうとすればつい本多勝一は自己規制してしまうのであろうかという揶揄めいた憶測すら流れたことがある。現在の日本でいくら悪口をいってもいい人の一人である石原慎太郎を批判する、いつもの当たり障りのない本多節で終始しているのである。

 私は本多被告が創価学会の機関誌『潮』の常連執筆者であったことを指摘はしたが、所詮これは創価学会が日中問題及びそれとは切っても切れない戦争責任問題に極めて熱心であったことから派生した副産物に過ぎない。しかし、潮出版社=創価学会がどういう組織であるかのほうには渡辺氏はあまり興味を持たなかったようである。「本多勝一氏が創価学会と関係があるかどうか」という、私が使用していない著しく単純化されたスキャンダラスな表現をあえて使った上で「興味がない」と称して個人の感覚だけで片づけられる問題であるかのように誤魔化しているだけである。しかし、いくら渡辺氏が「本多被告と創価学会の関係」に目をつぶろうと、まず、田中内閣の日中国交正常化に公明党=創価学会が異常なほどコミットしたのは歴史的に揺るぎのない事実である(竹入義勝問題のキーワードの一つでもあり、またこのころ強化された田中派との関係は細川内閣、新進党の発足にまでつながる)。さらに、こういう渦の中に本多被告や、公明党参院議員としての二期12年の間に残した実績はシングァンス事件へのまぬけな対応だけという元朝日新聞論説委員W氏らが巻き込まれたのである。今も創価学会は国内最大の親中派勢力であるが、自公連立政権時代の現在には、彼らにとって絶対に許容できない問題であるはずの首相の靖国参拝への対応ですら具体的な独自性を出せずにいるわけだから、『ペンの隠謀』のような書籍は時代の隙間に咲いた徒花でしかなかったのかもしれないが、「敵」を作って自社出版物で罵倒に罵倒を重ねる『ペンの隠謀』でも見られる下品なやり方自体は現在も健在であり、『潮』最新号では組織の裏切り者である元創価学会顧問弁護士がやり玉に挙げられ、「徹底的に、そのでたらめぶりが批判され」ているから、創価学会出版部門の基本的な編集スタイルがいかなるものかについてはいつでも確認できるのである。

>例えば、憲法で言論の自由が保障されているからといって、言論のすべてに意味があるわけではありません。不適切な発言や、ある程度の罵倒、ばか呼ばわりも言論の自由のうちです。憲法で保障されているからといって、何をやってもいいということにはなりません。不十分な証拠で訴訟を起こし、その結果として、新しい事実の暴露というしっぺがえしが原告にはねかえってくるのです。

 言論の自由についてはもちろんそのとおりで、全ての言論の自由を認めた上で、しかし結果的に保障の度合いを低く抑えざるをえない言論というものがあるのは事実である(たとえば公共物への落書きなど)。しかし、なぜそこからそれが第32条にもあてはまるように話が飛ぶのであろうか。訴訟を起こしたことで原告側に不利益が生じるなどということは、絶対にあってはならないことである(第32条がおかれた趣旨は、まさにそこにある)。にもかかわらず渡辺氏はそれを問題視するわけでもなく、それどころか裁判を起こす側を牽制する手段として積極的にアピールしているわけだが、自分の発言していることの意味を冷静に考えてもらいたいと強烈に思う。