| 30985 | 返信 | Re:水原文人は恥を知れ3 | URL | とほほ | 2004/11/20 04:48 | |
| > 自分が何の関係もない「精神障害」など持ち出して相手を誹謗し、その点を指摘されて逆上しているだけである。 とことん、頭の悪い奴だ。 「精神障害」を持ち出したことがなんで「誹謗」になるのよ。 いいか、精神障害者が偏見を受けている社会的差別は存在する、これは間違いない。あんたがそれを「誹謗」と感じることがあんた自身の中に精神障害者に対する偏見があるの。 --- 私は歴史小説が好きでいろんな人の小説を読みますが、陳舜臣さんという作家も好きです。陳さんの書いた本の中に「妖のある話」と言う本があります、中国史に出てくる女性に対する陳さんの女性観を書いたものですが陳さんは「私はフェミニストである」としてこの本を書いております、ところが上野千鶴子を読んだあとに「妖のある話」を読むと、「こらこら陳さん、そんな事を書いていると上野千鶴子にアッパーカットを喰らうぞ」となります。 陳さんは「私はフェミニストである」と思っている限り永遠に女性差別に気がつかないでしょう、さて第3者的立場で陳舜臣と上野千鶴子を読んでいる読者である私はどうなんでしょう?そうやって陳舜臣が私であること、そして女性が「痛い」と叫んでいる事に気がつくわけです。 私がフェミニストになるためには私が女性差別主義者である事を認めなければ永遠に私はフェミニストにはなれないでしょう、陳舜臣の女性観に共感する自分の存在に気がつくわけです。 愛着、愛、かわいがる、笑い。これらは全て人間の幸福を表現する言葉ですが、同時に弱者を想定しており、往々にして侮蔑と区別がつかなくなる事が多いです。「ちびくろサンボ」や「だっこちゃん人形」をかわいがる気持ちは純粋なものです。黒人が「痛い」と叫んでも「私は決して黒人を差別していない、かわいいと思っている。」と言う差別主義者は永遠に黒人差別に気がつかないでしょう。 「笑い」の本質は弱者に向けられたものです、落語の八っさんは愚者を想定したものであり、漫才には必ずボケがいます。「嘲い」と区別はつきません。あきらかな「嘲い」もジョークだよ、と言ってごまかせるのは日常的な経験から誰でも知っているはずですし逆にそれを咎められると「ジョークのわからない奴」とされる社会文化もあるわけです。 だからと言って「愛着、愛、かわいがる、笑い」は決して否定できないわけです。 ---とほほのとほほ空間、日本人のお行儀より--- |
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