| 30989 | 返信 | 解放同盟と共産党は、なぜ対立したのか?個人と社会の問題について | URL | 帽子屋 | 2004/11/20 13:42 | |
| とほほ様、おひさしぶりっす〜♪ > > 自分が何の関係もない「精神障害」など持ち出して相手を誹謗し、その点を指摘されて逆上しているだけである。 > > とことん、頭の悪い奴だ。 > 「精神障害」を持ち出したことがなんで「誹謗」になるのよ。 > > いいか、精神障害者が偏見を受けている社会的差別は存在する、これは間違いない。あんたがそれを「誹謗」と感じることがあんた自身の中に精神障害者に対する偏見があるの。 う〜ん、実は前言を翻しているように聞こえるかも知れないけど、実際はそこまで断言してはいけない気がするんですよ。 帽子屋は、はじめこの問題が八木沢様の手によって提出されたとき、非常に面白いモノになりそうだ、という期待感をいだきました。なぜなら、それは解放同盟的な議論とは違った視角から、「個人の責任」を提出してくれるもののような気がしたからです。八木沢様の議論は、つねに視角にこだわってくれます。帽子屋にない視角を提示してくれる八木沢様の投稿は、その意味でいつも拝読しておりましたから、期待感をもったのですね。 その議論の方向性とは何だったのか。それは、現前にある社会の差別構造を前提に、それに与しかねない個人の責任を明確化して追及していこうとする姿勢です。だからこそ、差別行為を問題にしようとする。そして水原様は、差別とその語がとられるのはなぜなのか?という提起を通して、日本に埋め込まれた差別について常に問題にしていく姿勢を見せている。これは、ROMされている方々にはいうまでもないことでしょう。 ここで、差別語問題で解放同盟と共産党はなぜ対立したのか、ということをあわせて考えてみると問題をよりクリアに理解できるでしょう。彼らの使うジャーゴンについては、差別問題の専門家ではないのであくまで私見にしかすぎませんが、その対立点の所在は、責任の主体は「個人か?それとも社会か?」にあったのではないでしょうか。現前にある社会の差別構造を前提に、それに与しかねない個人の責任を明確化して追及していこうとする姿勢は、部落解放同盟の言葉狩りに似た論理構成をもっています。部落解放同盟の戦略は、この個人の責任を追及していくことで、社会的差別の解消を夢見るモノであったわけです。 それに対し、解放同盟に対して攻撃をつづけた共産党の戦略とは何だったのか?。その社会的差別解消にはプロレタリアの解放が絶対欠かせない、つまり埋め込まれた社会的差別に対して、その全体革命を通して達成していこうという方向性です。この2つは相容れない妥協できないものです。部落民の解放とプロレタリアの解放は、まったく異なるものであるからです。ちなみに新左翼は、しばしば共産党の解放同盟への態度を批判しますが、新左翼はプロレタリア解放による社会的差別の解消という路線を放棄したのかを考えていくと、まったく理解不能な態度としかいえないでしょう。どんなに美麗字句で飾ったところで、敵の敵は味方、スターリンとヒトラーの相容れぬもの同士の、ポーランド分割よろしく醜悪な「悪魔の同盟」に毛の生えたものとしか、いえません。 いってしまえば、この八木沢様と水原様の争いというものは、「部落解放同盟vs日本共産党」の底流にながれていた、責任主体としての「個人VS社会」について、ポストモダンだのを経過した時代に相応しい、変奏が加えられていることにあるでしょう。 オールドリベラリスト的色彩が濃厚な八木沢様が、部落解放同盟的戦略をとり個人の責任を明確化していこうとしたことは、非常に衝撃でありました。保守もかわったな、と。と同時に、これはオールドリベラリストの八木沢様にとって、解放同盟との違いを明確にしなければならず、非常に苦しいモノであったと拝察します。「差別語」として弾劾しているのではないという言明は、その苦しい戦略の一環であったことは、誰の目にも明白です。しかし、「個人」をとう戦略の最大の問題、「なにが差別なのか」「個人が責任をどこまでとれるのか」に対する脆弱性も引き継ぐことになってしまいました。これを徹底的に明確化して、誠実に回答をあたえなければならないとすれば、どのような結末になるのか。聡明な人間にはもうおわかりでしょう。森永和彦氏の30934投稿がその回答であります。 > 国境や民族が消滅するグローバル時代へ向けて積極的に努力することが求められます。もちろん、それには石原珍太郎のような手合いを取り締まる「差別禁止法」のようなものが必要です。 明示化された、誰にとっても明白で守らなければならない「法」という誘惑を安直に招き入れかねない。そして八木沢様の試みは、この誘惑を拒絶してあくまで「常識」にこだわることで、責任を明白にしていこうとしたことにあったわけです。その試みは貴いとおもいます。しかし、八木沢様的な感性を共有しない、八木沢常識の「共同体」に属さないものには、なんの説得力もありません。この障壁をまえに、八木沢様の試みは挫折したのではないでしょうか? また、水原様の論理も、八木沢様同様に個人から出発します。ただ異なっているのは、解放同盟が弾劾した「個人の責任逃れ」という批判を封じ込めるため、社会にうめこまれた差別の摘発を思考する点です。「社会」を問題にする次元は同じでも、共産党ともまったく異なった論理構成をとっています。しかし、それは以下の弱みをかかえることになるでしょう。それは、 「社会的に埋め込まれた差別を解消するのにどうすればいいのか?と問われても、答えることができない」 ということです。共産党には言うまでもなくプロレタリア革命と答えることができる社会変革プログラムがありました。またフェミニズムも、そういった変革プログラムの一環であります。しかし、ポストモダンなるブームを20年も前に経過した今の時代にあって、そのような「統合的なプログラム」など、別のことなる箇所で傷口を広げるだけであることは明白になっていて、そんな脳天気な回答など、おいそれと与えることなんてできはしない。 ここに、差別問題をめぐる、新たな、そしてとてつもない困難があるわけです。このことを真摯に考えていこうとされた、八木沢様、そして水原様には正直頭がさがるばかりです。そして、妙なHNをあやつる人間がこの両者に様々な茶々入れをおこなっています。そしてそれによって、この試みは挫折を余儀なくされようとしております。しかし、だからこそ、決して、 > いいか、精神障害者が偏見を受けている社会的差別は存在する、これは間違いない。あんたがそれを「誹謗」と感じることがあんた自身の中に精神障害者に対する偏見があるの。 と、決めつけていい、生やさしい問題ではないことを知る必要があるのです。ぜひ、その辺は、とほほ様にもお分かり頂きたい、と切に願うばかりです。 |
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