30994 返信 「差別語」論争、敗北したのはだれか。 URL 八木沢 2004/11/20 17:10

 完全に冷静さを失った水原君が、筆が滑ったのであろう、とんでもないことを書いている。

>差別語でなければ「精神障害」という語を使ったところで、差別にはなりません

 たとえば中国を「支那」という言葉で表現した瞬間に、中身がどれほどシナの歴史やシナ人やシナ文化を愛し、肯定し、尊敬した主旨のものであろうとも差別でありけしからんと糾弾される状況というのは明らかに病んでいる。シナ文学の研究者を自称する人物が「中国人お断り」の注意書きを出した大家に憤る場面で、前者は日常的にシナを使っているから差別的だが、後者は「中国人」と書いているからそれよりましだという論理が成立するわけないことは明白である。言葉というのは、差別的に使われるから差別になるのであり、それ単独で差別的な意味でしか使われない言葉というのは現実には「チョンコ」「チャンコロ」といった極めて限られた言葉だけである。水原君は当然ご存知だと思うが、筒井康隆の幻の作品「人、世に三人あれば」においては、「サラリーマンは差別語ではないか」という架空の議論が展開されている。この言葉は蔑称として使われる頻度が極めて高いからだ。現に、企業に属さずに生活している自らの状況があたかも他人と比較して優位に立っているかのように主張したいがために「サラリーマン」を持ち出してこれを揶揄するという手法を頻繁に使用する者が「問答」近辺にもいるではないか(この事実だけで彼の能書きの大半に私は聞く耳を持たないのだが、差別をなくそう、平和を、環境保護を、という類の主張をするときに自らがどれだけ律せねばならないのかに無自覚な輩が、えてして安直なレッテル貼りで他者を見下しお茶を濁しているだけで有益な発言や運動を展開したつもりになっているのだ)。身障者や外国人といった明らかなマイノリティでなければどれだけ嘲笑してもいいという不思議な雰囲気が左翼陣営を支配してきたという事実は、前提として忘れてはいけない。

 よって、「精神障害」にせよ、「精神障害者」にせよ、単にある状態やその状態の患者を指している言葉はその意味の限りにおいて「差別語」とは言わない。水原君はそういう主張をしているのだと思っていたが、冒頭の発言だと差別語を使えば差別、使わねば差別ではないという単純な立場にいる様子しかうかがえない。矛盾していることはわかっているのだろうか。私は自分の手帳を「キチガイ手帳」と名付け、周囲にも吹聴しているくらいであるから、「キチガイ」は時に尊称になるとすら考えている。「メクラ」も尊称にまでするのは苦しいかもしれないが、蔑称と断言するにはいくつものハードルを越えねばならない。「メクラ」と「目の不自由な人」は同じ意味ではない。

 そもそもは水原君が毒芋虫氏に「限りなく精神障害予備軍に近づいておいでなのに対して、憐憫を禁じ得ませんな」と述べた言葉を私が咎めたのがことの始まりなわけだが、水原君は以後一度たりとも自分自身の発言を正確に引用したことがない。必ず「憐憫を禁じ得ない」を省略する。前提を勝手に変えられては、たまったものではない。「中国人お断り」の「お断り」を省略して「中国人に言及したら差別なのか」と問い返す大家はますます非難を浴びるであろう。精神障害者を差別して何が悪い、と反論するならまだしも筋は通っているが、「憐憫を禁じ得ない」発言はなかったことにした上で「差別なんかしていない」「差別しているのはお前の方だ」と倒錯した反論を試みる水原君は、議論をする基本的な素質を全く欠いていると断言せざるを得ない。

 今回わかったのは、差別語を使えば差別、使わねば差別ではない、などという幼稚な主張をしているのは水原君自身だったということ。こういう輩にそうとは知らずイチャモンをつけてしまった私が、帽子屋氏のいうところの「挫折」をすることは実は最初から予定されていたのであろう。私は敗北したのである。