31002 返信 Re:解放同盟と共産党は、なぜ対立したのか?個人と社会の問題について(横道レス) URL 上海 2004/11/21 01:17
帽子屋さん

お久しぶりです。
いつもながらの明快で骨太な論説、問答「有用」の真骨頂ですね!

レスを付けたくなったので、ちょっと横道ですが、失礼します。

> ここで、差別語問題で解放同盟と共産党はなぜ対立したのか、ということをあわせて考えてみると問題をよりクリアに理解できるでしょう。彼らの使うジャーゴンについては、差別問題の専門家ではないのであくまで私見にしかすぎませんが、その対立点の所在は、責任の主体は「個人か?それとも社会か?」にあったのではないでしょうか。現前にある社会の差別構造を前提に、それに与しかねない個人の責任を明確化して追及していこうとする姿勢は、部落解放同盟の言葉狩りに似た論理構成をもっています。部落解放同盟の戦略は、この個人の責任を追及していくことで、社会的差別の解消を夢見るモノであったわけです。

順番として、共産党が先のほうが、書き込みやすかったのですが・・・

解放同盟は地域によってその性質が大きく異なります。例えば大阪地域では、在日朝鮮
人の多い生野地域などとの関係もあり、独自の運動を展開してきました。早い時期から、例えば教育の問題では、在日1世の読書き(識字運動)をオモニハッキョなどで行っていた在日団体の影響で、独善的にならない「教育を取り返す」運動を構築する事ができていると思います。解放塾はその良い例です。

また、部落差別には熱心ではあっても、解放同盟内での障害者差別や在日朝鮮人差別の
実態は厳然として存在し、それに正面から取組む事により、「個人からの差別問題の解
決」に現実性を持たせました。
また、寄場労働者、港湾労働者や運輸関係の組合運動とも連帯し、「差別糾弾団体」の
イメージとはかなり異なった実体であると思います。


>
> それに対し、解放同盟に対して攻撃をつづけた共産党の戦略とは何だったのか?。その社会的差別解消にはプロレタリアの解放が絶対欠かせない、つまり埋め込まれた社会的差別に対して、その全体革命を通して達成していこうという方向性です。

共産党の場合は、もし本当に「プロレタリアの解放」を掲げていたのであれば僕も支持
できる部分もあったと思いますが、実際には、「票になる運動しかしない」方針は徹底
しており、水俣を捨て、三里塚を捨て、そして在日朝鮮人を捨てました。票にならない
ですから。(その一方では大阪空港騒音問題や四日市公害運動はやりましたね。票になる
からです)。労働運動は、対象がホワイトカラー及び「ライトブルーカラー」限定、
或いは票になる個人商店組合等に明確に集中しました。(唯一の例外は、票にすれば巨大
だった国労への敵対でしたが・・)

個人からの視点と、社会的な視点と言えば、概して後者の方が聞こえは良いのですが、
次のような矛盾には共産党は対応できない、或いは分かっていても行わない。
それは、例えば、軍需産業工場労働者の労働運動の取り組みです。共産党はあくまでも
職場改善運動しか支持せず、仕事そのものを問い直す方向性は一切打ち出さなかった。
軍需が出来る高い技術がある職場ならば、真剣に民生転換すれば、もっと生産性は
上昇したはずです。
一定の議員を政界に送り込んできた政党であるのに、労働運動で最も大切であった筈の
経営協議会については無策でした。(これは国労がかなり真剣に取り組んでいましたが
、日の目は見ませんでした)。


>この2つは相容れない妥協できないものです。部落民の解放とプロレタリアの解放は、まったく異なるものであるからです。ちなみに新左翼は、しばしば共産党の解放同盟への態度を批判しますが、新左翼はプロレタリア解放による社会的差別の解消という路線を放棄したのかを考えていくと、まったく理解不能な態度としかいえないでしょう。

全く正論です。解放すべきプロレタリアートが海外に移ってしまった後は、完全に政治
的戦略は崩壊していたと思います。経営者V.S.従業員(部課長含む)の視点を打ち出す
べきだったと思います。(未組織の新左翼では元々無理な話しで、これこそ、共産党や
社会党が目指す戦略だった筈です。)


> 「社会的に埋め込まれた差別を解消するのにどうすればいいのか?と問われても、答えることができない」

このあたりで、「差別」の課題の方へとちょっと軌道修正すると・・・・
最近では「屠殺」と言っちゃあ駄目らしい。「食肉解体」と言うとか・・・アホですね。
あの仕事は「目の前に用意された死んでいる家畜」を解体する事に社会的価値があるの
ではなく、生きている動物を「殺して、血まみれの死体を解体する」事にこそ意味があ
るのです。こういう仕事は「川向こうの人達」が行う仕事として明確に「住み分け」
られるものとして存在します。プロレタリアートの解放ではどうにもならない。
(短期的には)。
で、牛は大きすぎるから豚なんですが、街中の広場なんかで「屠殺から解体」までを
みんなの見ている前でやってしまうと言う試みがこの10年くらい流行ってきてます。

若干、例が偏っているとは思いますが、「社会的差別の対象」をうまくプロモーション
する事じゃないでしょうか?で、ブランディングしてしまう。

つまり

> > いいか、精神障害者が偏見を受けている社会的差別は存在する、これは間違いない。あんたがそれを「誹謗」と感じることがあんた自身の中に精神障害者に対する偏見があるの。
これを読んで思うんですが、たけし軍団がフライデー編集部に殴り込みを掛けた時の
理由が、フライデーが「たけしは鬱病」との報道をした事であったと記憶していますが、
人気絶頂のたけしであった訳だし、「鬱病」をブランディングすればよかったのです。

せっかくのチャンスであったのに、どうしてたけしが「しんどい方」を選んだのか?
と思ってしまいます。中島らものように、自らのアルコール依存症をネタにするほうが
余程面白いのですが・・・

誤解を恐れずに言えば、社会的差別の対象が差別の対象である限り、社会的価値は限ら
れていますが、それらを表にひっぱり出してやれば、新たなビジネスチャンスになると
思います。