31006 返信 「差別語」とはなにか? URL 水原文人 2004/11/21 02:01
八木沢様、

失礼ながら、八木沢様ともあろうお方が、なにを血迷って突然ニワトリ並みの記憶力になったのか、それとも急にこのような姑息なゴマカシをなさるような人間に成り下がったのでしょうか?

>  完全に冷静さを失った水原君が、筆が滑ったのであろう、とんでもないことを書いている。
>
> >差別語でなければ「精神障害」という語を使ったところで、差別にはなりません

あのぉ、上記はこの議題について僕がいちばん最初から主張し続けていることなんですが…

まあ最後まで読むと、差別であるかどうかが文脈の問題によって決まることに言及されたのはさすが八木沢様だと言いたいところなのですが、だというのに上記の拙文の一節をなぜ文脈からまるで切り離して乱暴に一般論化するという姑息な手法によって、元の特定の文脈内なら派生しない問題から非難なさろうとしているのか?

ただのもの忘れならば仕方がないですが、怨恨からとにかくなにか言ってやろうというおつもりだったとしたら、当掲示板の投稿既定に掲げられている目的に著しく反しますので、お気持ちは分からないでもないですが、およそ八木沢様にふさわしくない行動だと存じますので、ご自省くださいませ。

>  たとえば中国を「支那」という言葉で表現した瞬間に、中身がどれほどシナの歴史やシナ人やシナ文化を愛し、肯定し、尊敬した主旨のものであろうとも差別でありけしからんと糾弾される状況というのは明らかに病んでいる。

おっしゃる通りでして、これについて差別というのはおかしいのですが、だからといって中国のことをシナないし支那と呼ぶことが正当化されるわけではありません。これは差別ではなく単に礼儀の問題ですから。

> 言葉というのは、差別的に使われるから差別になるのであり、

それ自体はまったくその通りであり、つまり差別的な意味など文脈上いっさいなかったにも関わらず「精神障害」という語を見ただけで「差別だ」と激昂し、しかも「精神障害者」と誤読したことが「精神障害」が単なる状態を現すものであるので「精神障害者」と書くだけで文脈上まるで意味が違ってしまう(ちなみに、「精神障害者」と書いていたら「差別だ」「精神障害者を引き合いに出している」云々の批判に反論するのは、相当に困難だったでしょう)ことにも気づかないほどの錯乱状態を今に至るまで(もうひと月ぐらい前の話でしょうか?)引きずっているtaraなんとか氏のような方まで出て来てしまうのは、「精神障害」という語を含んだ文章が受け止められるところの文脈、つまりは受け手の意識や、その総体としての社会全体に潜在的にある差別的構造ゆえであるという拙論と、まったく合致いたします。

投稿全体では問題が多々あるところながら、この部分に関してのみ、またまたご同意ありがとうございました。

で、「シナ」の件に戻りますと、言葉というのは歴史的文脈を背負って存在しており、かつて「シナ」が別称的に用いられた経緯がある以上現代という文脈でそれが解消されたかどうかを見極めるのは相当に慎重な検討が必要となるのがまずひとつ。

しかしそれ以前に、固有名詞としてある国とその国民を指す言葉である以上、その当事者である国と国民が「使って欲しくない」という呼称でその国や民族を指すのは、ごく単純にまったくの非礼であります。

> 現に、企業に属さずに生活している自らの状況があたかも他人と比較して優位に立っているかのように主張したいがために「サラリーマン」を持ち出してこれを揶揄するという手法を頻繁に使用する者が「問答」近辺にもいるではないか

どこにいるのでしょうか? サラリーマンの職業的属性のなかに揶揄の対象となることがあるのなら、それを揶揄することになんの問題があるのか理解に苦しみますし、それをもって「自らの状況があたかも他人と比較して優位に立っているかのように主張したい」などとその論者の内面を勝手に妄想するのは、常に他人に対し自分が優位に立っていたいという自らの潜在的欲望を投影しているだけの妄想的な認識障害の疑いもありますので、ご注意のほどを。

> 身障者や外国人といった明らかなマイノリティでなければどれだけ嘲笑してもいいという不思議な雰囲気が左翼陣営を支配してきたという事実は、前提として忘れてはいけない。

「忘れてはいけない」もなにも、そんな「前提」は初耳です。八木沢様ともあろう方が、そのような誰も納得しそうにない妄想を勝手に前提となさるほどうかつであったのでしょうか?

なお「先生と呼ばれるほどのバカはなし」というのは、それでは「先生」との敬称で呼ばれる職業に対する差別なのでしょうか? ではいわゆる先生業をやっていたときに「先生と呼ばれるほどのバカはなし」とうそぶいて学生に「さん」づけを強要していた私の立場はありませんな。

>  よって、「精神障害」にせよ、「精神障害者」にせよ、単にある状態やその状態の患者を指している言葉はその意味の限りにおいて「差別語」とは言わない。水原君はそういう主張をしているのだと思っていたが、

その通りです。その文脈内において

> 冒頭の発言

が繰り返しを省くために用いられているだけです。

>  そもそもは水原君が毒芋虫氏に「限りなく精神障害予備軍に近づいておいでなのに対して、憐憫を禁じ得ませんな」と述べた言葉を私が咎めたのがことの始まりなわけだが、水原君は以後一度たりとも自分自身の発言を正確に引用したことがない。必ず「憐憫を禁じ得ない」を省略する。前提を勝手に変えられては、たまったものではない。

差別がその語が用いられる文脈(ただその当該文章だけでなく、受け止められる文脈、つまり受け取る側の問題も含む)ことに気づかれたのはさすが八木沢様だと申し上げたいところなのですが、その割には「限りなく精神障害予備軍に近づいておいでなのに対して、憐憫を禁じ得ませんな」という文章の構造も、その文章が発語された文脈もまるで無視して「精神障害」と「憐憫」を問題にしているところが、八木沢様とも思えぬ粗雑さであります。

まず「憐憫」がなんに対してであるかと言えば、読めば分かるように「限りなく〜近づいておいで」な状態であることは明白であります。なのにその部分を落とされた強引な解釈は、故意なのでしょうか、うっかりミスなのでしょうか? 後者だと信じて論を進めさせていただきます。

で、この当該の一文が出てくる前に、オリジナルの拙投稿には「自己投影の無限ループ」についての言及があったことをご記憶かと思います。

八木沢様は「失語症」が精神障害であることも知らないのに「精神障害」関して議論したがるようなtaraなんとか様ほど無知で恥知らずな傲慢な方ではないと思いますので、もしそれまで知らなかったとしても「自己投影」が精神分析用語であって、それが今の言葉で言えば精神障害の一種である精神状態であることはご理解いただけると思います。

つまり、オリジナルの文脈では、「限りなく精神障害予備軍に近づいておいで」は「自己投影の無限ループ」を指していることはもうお分かりかと思います。で、「自己投影の無限ループ」に落ち込んだまま無自覚でいると、これはもう自分の恐怖とか敵意を勝手に他者のなかに見いだしてしまってますます敵意や恐怖心を募らせることになりますので、実に救いようのない状態がどんどん深刻化していくわけです。

このようにしごく単純な構造しか持っていない、長さもたいしたことがないシンプルな投稿であったのに、受け取る側の属する文脈によっては、元々そこにありもしない「精神障害者に対する差別」が見えてしまうのですから、八木沢様が鋭くご指摘のとおり、ある言葉が差別語となるのはその語が発せられる文脈の問題であるというのは、まさにこの帽子屋さん流にいえば「喜劇」の大きな教訓であるとは言えるでしょう。

こういう状態が気の毒でなくてなんでしょう?その怖さが分かっていれば分かっているほど、気の毒でしかありませんが、と同時にいささか不謹慎なことを言えば、その姿がハタから見れば滑稽であることもまた事実です。

「悲劇と喜劇は、クロースアップか引きのショットかの違いにすぎない」ハワード・ホークス

これが冷笑になってしまえば滑稽に思っている側もまた救いようがないのですが、人生の皮肉としてアイロニカルに受け止められるなら、精神的に健全だと言えるでしょう。自分自身もまたいつその状態に陥っておかしくないことを自覚するとき、アイロニカルな笑いはその自分に対してをも一定の距離をもつことを可能にしてくれますから。

なお、まさか八木沢様ともあろう方が「情けは人のためならず」という非常にすばらしく日本の伝統文化に根ざした美徳を現した慣用句の意味を、最近流布している誤った解釈でご記憶なさってなどいないだろうとは思います。日教組と文部省の結託したエセ平等教育の悪しき成果とでも言うべきか、情けや哀れみや憐憫を「差別だ」などと間違ったことをヌカす人々がいますが、そのような考えは実のところ同じ人間どうしである他者に対する当たり前の倫理的責任を無視するのにまことに都合がいいので受け入れられてしまっているだけです。そのような怠けて人間としての責任の意識に欠如した社会に今の日本がなりつつあるのだとしたら、道徳教育の強化は教育改革にとってもっとも重要な課題のひとつとなるでしょう。

哀れみや憐憫や同情それ自体はむしろ尊い感情ですが、その尊い感情が自分にあるんだという自己満足や、八木沢様も先ほどあげておられた「自らの状況があたかも他人と比較して優位に立っている」と思いたい潜在的欲望の裏返しとして自分からみて「弱者」に思える対象にそのような感情を押し付けるのは、これはまるで褒められたものではなく、むしろそのなかに差別意識が内包さsれているとすら言えます。

また、元々弱者などではない、ちっとも弱くない相手を「弱者」として愛で哀れみや憐憫を抱くことは、なによりも勝手に弱者だと決めつけられた相手に対して失礼であり、事実誤認であり、またそれは差別意識の裏返しにすぎません。

そうですね、いい例でいえば昨晩のノンポリ君の投稿にある「無抵抗なパレスティナ人」などという決めつけには、まずパレスティナ人が激怒するかも知れません。パレスティナ人は誇り高く抵抗する民族ですし(ちなみにユダヤ人は2000年間誇り高くマイノリティ集団として耐える民族であった。考えようによっては、かなりバカバカしい)、「弱者」などではありませんし、まして自分を叱責した相手を貶めるために現実に苦境にある他者を引き合いに出し、しかも和平の可能性が皆無ではなく、アラファト死後の今パレスティナ人たちが冷静に自分たちの行く末を決めようと努力しているときに、極めて扇情的であるだけのプロパガンダを流布する無神経さにもゾッとします。このような「弱者」偏愛など、唾棄すべき差別意識の自己正当化、その実他者を人間とすら思っていない精神構造の好例となってしまいます。

さて、ここまで読んだところで本来の八木沢様のような方であればもしかしたらお気づきかも知れませんが(あるいはすでにご存知かも知れませんが)、マルクーゼが分析しているように、差別意識というのもまた今の用語でいえば精神障害の一種であります。

なお誰も指摘していないので自分から白状しておきますと、例の投稿には一カ所だけ、精神障害者に対し差別的である、少なくとも差別を内包した社会構造に対して妥協している、と批判されてもまったく反論のしようがないところがあります。まずなによりも「予備軍」と書いたところです。また「限りなく〜近づいている」も同様の批判の対象になります。本来なら「精神障害の状態ががどんどん重症化する」とでも書かねばならないところを、「予備軍」とか「限りなく〜近づいている」と曖昧なオブラートにくるんだのには、本来書くべきであった表現がショッキングに受け取られるであろうことへの遠慮というかなんというか、そうした感情が読解できます。そうした感情を持つこと自体が「精神障害者を差別している意識」を示していると言われてしまえば、それは全くその通りで、反論も自己弁護もしようがありません。