31091 | 返信 | Re:「精神障害」をめぐる議論 | URL | 水原文人 | 2004/11/24 05:03 | |
ユーリのパパさん > > という訳で、「精神障害」についての議論であるはずなのに全然「精神障害」そのものはおいてきぼりではありませんか。なぜ「精神障害」の言葉におのおのが向かい合おうとはしないのでしょうか? > > この議論においては、「精神障害」の定義は本質的な重要性を持たないのです。 持ちます。精神障害は本来ならただ人間の精神の状態を表しているだけの言葉なのですから、その言葉を使ったところでただその状態を表すしか意味は(本来なら)ないのですから。 元々の文中のどこにも書いていない意味を読者が読み込んだ時に「差別」に見えるのです。すでに説明したかと思いますが、それは文脈は文脈でも文章それ自体の文脈ではなく、受けての受容の文脈の問題です。 taraなんとか氏が「社会常識からして許されない」と言ったのは、それ自体は間違っていないのです。ただ問題は、その「社会常識」という文脈です。「社会常識」が「精神障害」と呼ばれる状態を差別しているのなら、その社会常識に属する人はそこに自動的に差別を読み込むでしょう。しかしそれは文章として「書かれたこと」の問題ではなく、「そこに読まれたこと」の問題です。つまり書いた僕の問題ではなく、そう読んだユーリーのパパさんの問題です。 以前この掲示板で僕が流行らせたらしい言葉を持ち出せば、あの投稿自体が「批評的鏡」なのです。あるいはリトマス試験紙的な表現と言ってもいい。 > 簡単に説明してみましょう。 確かに簡単な説明ですが、読めば読むほど難解です。よく読んでみて分かったのは、そこにありもしないことを論じているので論理がねじれていくしかなく、その結果難解になっているということですね。 > 今、Wという語があり、これは差別語ではないとします。ある人がこの語を使って、Pという人に次のような発言をしたとしましょう。 客観的かつ冷静に見れば、以下の例は「差別語」とひとくくりにしてすべて同等に扱っていること自体が、「差別」の裏返しの「弱者ファンタジー」、その側に立っている自分という思い込みに自己満足しているにすぎないと解釈できます。 > 「PがWみたいである(Wに近い、Wに似ている、W予備軍である、等)ことに対して、憐憫を禁じ得ない」・・・S > > この文Sのポイントは、(1)Pを貶めるために「憐憫を禁じ得ない」という表現を使っている(2)貶めるPをWに比喩している−ことです。 違いますね。どこが違うかはあなたが具体的な例を入れた文章をひとつひとつ検証すれば分かります。 >(1)Pを貶めるために「憐憫を禁じ得ない」という表現を使っている あなたがそう読んだだけです。すでに八木沢様宛のレスでも言及しましたが、「情けは人のためならず」という言葉が誤って解釈されることが多い現代日本に固有な「社会常識」、というか社会的病理(人間として隣人・他者に対して本来なら持っているはずの当然の倫理観を放棄したい言い訳に、「差別」の解釈をねじまげている)の問題です。 >2)貶めるPをWに比喩している 比喩を示す言葉など、僕の元の文中のどこにもありません。 そして様々な理由で様々な差別があるのに、言葉をPだのなんだので入れ替え可能だと考えること自体が異常であり、差別の解消ではなく差別の忌避・隠蔽に向かっている発想です。 と言っても分からないでしょうから、あなたの書いたことを例により具体的に分析します。 > 「Pの顔がハンセン病みたいであることに対して、憐憫を禁じ得ない」 もし本当にハンセン氏病でそのような肢体の変形があるのなら、やっかいな病気にかかったこと自体は「大変ですねぇ」と憐憫の対象になるのは普通の感覚でしょうし、実際問題としていろいろ不自由があるのなら「お手伝いしましょう」ともなるでしょう。こうした情け・憐憫・哀れみは、普通の感情であり、人間として隣人・他者に対して本来なら持っているはずの当然の倫理観の発露です。 もし別にハンセン氏病ではないのに、顔形の容姿をケナすために言っているのなら、「ハンセン氏病」はここで明白に差別的な含意を含んで用いられています。 どちらのケースをおっしゃりたいのか今ひとつよく分かりません。たぶん「みたいである」という言葉からして後者であるのでしょう。 しかしここであなたの例が決定的に不適切なのは、僕の原文には皆無である「みたいである」をあなたが勝手に付け加えていることです。 > 「Pが言語障害みたいな話し方をすることに対して、憐憫を禁じ得ない」 まず「言語障害みたいな話し方」が意味不明です。外見的に言語障害とみなされる話し方なら、それは定義上すでに言語障害ですから、「みたいな」が意味不明です。言語障害にもいろいろありまして、ただのどもりだって常にそうなら言語障害ですが。緊張してどもる程度なら、誰にでもありますけどね。 いずれにせよ「障害」それ自体は、ただ現に障害がある、不自由があるという状態を示しているにすぎません。ですからあなたがこの次に書いた… > 「Pが朝鮮人みたいな奴であることに対して、憐憫を禁じ得ない」 これは本質的にまたく問題が違いますし、差別のあり方も違います。まず「〜障害」がただ状態を表しているのに対し、「〜人」という所属民族や国家を示す言葉は、基本的に不変の属性です。 それに「〜障害」という語が文字通りそうなっているように、現になんらかの分野での障害があるのです。差別以前に、なにかが不自由であるか「正常」ではないというハンディキャップがその状態にある個人にはあるのです。民族や国籍がハンディキャップになるのは、外国人などの他者として差別的な環境にある場合だけで、「〜人」であること自体がその個人の運動能力なりなんなりを制約することは、ありません。 本質的に問題が違うことをなぜ十把一絡げに、ごっちゃにしてここまで乱暴に論じられるのですか? だいたい「朝鮮人」の例が「精神障害」という語の用いられ方についての例として無意味であることはすでにあなたの以前の投稿に対するレスで指摘済みです。反論されたことにはちゃんと再反論して下さい。議論として無責任です。はっきり言って、人をバカにしているとしか思えません。 > これらの例では、「ハンセン病」などの語は差別語ではありません。しかし話し手は、Pを侮蔑することにより、ハンセン病(患者)、言語障害(のある人)、朝鮮人も侮蔑し、差別しているわけです。 「みたいな」という語を使えばそうですが、僕は「精神障害みたいだ」なんて言っていません。先述のようにそこが決定的に誤っている時点で、あなたの議論は無意味です。比較対象になぞしておらず、ただそうみなされる状態だからそうだと言っているだけであることはなんども説明していますが、そこについてなんら有効な反論は頂いておりません。本当に、人をバカにしているんでしょうか? 「知的共同作業としての議論」を目的にしているこの掲示板をバカにしているのでしょうか? ですから、 > 水原文人氏の「限りなく精神障害予備軍に近づいておいでなのに対して、憐憫を禁じ得ませんな」(S1)という発言が、相手を侮蔑すると同時に精神障害(者)も侮蔑し、差別していることは言うまでもないでしょう。 原文のどこにもはいっていない「みたいだ」を勝手に読み込んだあなたの解釈の問題であり、あなたの脳内の問題を僕に投影されても困ります。というか、昨晩説明したマルクーゼの理論にあるような、自分の内に潜在的に存在する恐怖の対象(この場合、「自分が差別者になること」)を他者に投影していることの典型例としては興味深いですが。 > ここで、S1が差別発言か否かは、話し手に差別する意図があるかどうかとは関係ないことに注意しましょう。 ええ。関係ありません。文章それ自体の問題でもなければ、書いた人間の問題でもありません。ただ単に、読んだ人間のうちにある潜在的な問題が、他者の書いた文章に投影されているだけです。表象として現出している文のなかにはどこにも存在していない「みたいだ」という意図を勝手に読み込んだあなたの内面の問題でしかありません。 > 蛇足です。精神障害者を差別してもよいと考える人でない限り、精神障害者やその家族がいる場で、論敵に対しS1のような発言をする人はいないでしょう。あたりまえです。 しかし誰もそのような発言はしていません。「みたいだ」というどこにもない意味を自分の解釈で読み込んだのはあなたですから、その解釈にあなたの潜在意識が反映していると考えるのが、論理的には妥当です。 今度こそまともな再反論なり自己弁護なりを期待しています。でなければ、破綻して自己投影に陥っている自分の論理の問題点をまず自覚して下さい。その破綻した論理で他人を非難するのは、事実を歪曲した印象操作にしかなりません。 >猫まんまさん、 >「人格障害」は精神障害以上に、時代や社会によって人物評価が異なるのではないのでしょうか? > キリストやヒトラーチェ・ゲバラなどの人達も時と場合によっては「人格障害」とされてしまう可能性はありませんか? その通りだと思います。我々が生存する環境に必要な社会的な秩序を具体的に定義することは極めて難しい、というか不可能ですから。言い換えれば、常に我々は自問自答するしかないのですから。 帽子屋さんの指摘した僕のスタンスの決定的な弱みに対して僕が言えるのは、常に自分が所属する社会を疑い批評的に再検証し、そこに属する自分自身の認識や思考を再検証するような意識を持つこと、としか言えません。しかしそれは社会の総体の意識の健全さを維持するためには、極めて重要なことだと思いますし、あらゆる理想主義が現実の前に限界や矛盾を露呈した20世紀を経た人類にとってはとくにそうだと思います。 >えと、水原さんの文章を読んだ雑感なのですが、恐縮ですが、精神医学の語を借用して社会批判をなさりたいのか、あくまで精神医学の枠組みでの個人批判に留まろうとなさっているのかが曖昧で理解しにくいのです。 具体的に出て来た発言に検証を加えることは確かに「個人批判」にも見えますね。その点については自分の表現の拙さに反省するしかありません。ただ具体例を論じなければ社会の成員の一人一人に刷り込まれ、そこに自覚的にならない限りそこから逃れられないであろう「社会常識」を装った差別構造を本質的に露呈させることはできないと考えますので(抽象論に走れば、すべて「対岸の火事」で「自分はそんなことはない」と無邪気に信じ込めるものですから)、あえて具体例をベースにしていることはご理解ください。 > 岸田秀みたく、「精神分析はそもそも社会批判であり、個人の診断は方便だ」というのであればスパッと理解出来るものなのですが。。。如何でしょうか? 後者です。僕も岸田秀大好きですし(笑)。 また僕が怠けた頭にむち打って出来る限り詳細に検証しようとしてる、その矛盾を露呈させようとしている個別例が、そろいもそろって社会常識」を装った差別構造の典型例をほとんどステレオタイプ的に、そうした精神構造も問題性をアーケタイプとして露呈しているので、どうしてもストレートになってしまうのが困りものなのですが、しかし「社会常識」のアーケタイプが掲示板投稿者と言う実態をもって現前しているので、その典型として分析批判することは、彼らに問題のある「社会常識」をある種代表してもらっている、というスタンスは僕にはあります。 物語芸術(小説、演劇、映画)の登場人物がただその人間としてのみ存在しているのではなく、それぞれになにかを象徴的に代弁しているのと同じようなニュアンスだとご理解くだされば幸いです。 実在の人間をフィクションのように扱うな、と言われたって実在だからこそフィクションの人物にはない複雑さを持って入るわけですし、どっちにしろHNという実生活とは無関係の、その意味ではフィクショナルなご自分でしょう、ということにはなります。 それにしても、普通、この種の議論は丸一日考えてからやっと書くことが決まるぐらい塾考が必要なはずですが、どこがおかしいのかが5分もかからずに明確に見えて来てしまうのって・・・。昨晩の投稿の方がよっぽど時間がかかったわ… |
||||||
![]() |