31212 | 返信 | 「精神障害」をめぐる議論(特に「フロイト理論」の援用について)(再投稿) | URL | なな | 2004/12/01 00:04 | |
この投稿は自己削除した#31180投稿の修正再投稿です。削除に至った背景、理由は後の投稿にて説明しております。また、字句は元投稿から一部変更しております。 以下、本文。 ------------ 水原さんとは2年ほど前に「精神分析」をめぐって、ご自分の意見や主張の援用として貴方がそれをあまりにも安易かつ不用意に持ち出されるとして「田中荘」で何度か批判的な意見を書いたことを覚えています。 私は、最近沸騰した議論になっている「・・・憐憫を禁じえない」発言について、それが差別発言であるのか否か、そして精神障害者に対する差別的な発言になるのか否かについての議論に頭を突っ込む気はほとんどありません。 しかしながら、私は「精神病」「精神疾患」「精神障害」についてそれなりに勉強してきたこともあって、貴方の「精神病」や「精神障害」に関する発言に対して感じたいくつかの疑問点について、横からになりますがレスさせていただきます。 それらの疑問点は掻い摘むと以下のようになります。 (1)意見や主張の援用として引き合いに出されるフロイトの精神分析理論の解説的な発言には、本家であるフロイトの言説、学説に対する拡大解釈や誤認識があるのではないか。 (2)マルクーゼの理論を援用する形で書いている「精神病」に対する捉え方に少なからぬ疑問を感じる。 さて、他の方との議論を引用させていただきながら疑問や意見を書きます。 > 精神分析理論は人文科学のあらゆる分野に応用され援用されています。こと芸術研究には必須科目ですが? (#31176) 総括的に「応用され援用され」ているという言い方は正しくないと思います。 何らかの形で影響を与えたり、賛否は別として議論や批判の対象となってきたとするのがより実態に沿った正確な言い方ではないでしょうか。 たとえば、人文科学の一分野である心理学においても、実証的な知見を示しながらフロイト理論を根本的に疑問視したり、否定する研究報告は少なくありません。 精神医学について言えば、少なくともその臨床において、フロイト理論をそのまま応用・援用して診療に当たっている精神科医はまず少ないと言えるでしょう。(サイコセラピストと言われる「療法者」は別として) ただ、芸術分野においてはフロイト理論が世に出されて以降、多くの文芸作品(演劇、映画、小説 etc)において、人間の内面的心理描写や言動の動機解説、解釈などにそれが援用的に取り入れられてきたのは確かなことでしょう。そしてそういった作品の中には、人々の高い評価や感動を得てきたものがあることも確かなことです。そういった意味では、フロイト理論が芸術を志す人にとっては「必須科目」になるということも理解出来なくはありません。 しかし、そのことをもってして、フロイト理論が実証科学であるべき精神医学の知見にも適っていると決めつける合理的な根拠にはならないでしょう。ある文芸作品が人々の興味や感動をよんだからといって、その中で「援用」されているフロイト的概念が科学的な見地からも正しいものだとは言えないということです。実際、フロイト理論に対して科学的立場からの疑問を投げかける精神医学研究者や心理学者、そして他分野の科学者は数多くおります。 さらに言えば、水原さんが他の方との議論でご披露されたご自分の修士論文におけるフロイト精神分析理論も、上述したような芸術論的なカテゴリーにおけるフロイトの評価ではなかったのかと推測します。質問の形を取らせていただけば、それは精神科領域での医療におけるフロイト理論の実証的な論証と言えるものではないでしょう?と言うことになります。 > 社会的にそのように流通していると僕が理解していることと、僕が理解していることには微妙なズレがあります。僕自身は人間はみんな精神病を抱えているし、そうなるのは現代文明の構造上当たり前であるというマルクーゼの理論を支持してます。 (#31156) 「人間はみんな精神病を抱えている」という水原さんの捉え方自体には特に意見を申し上げませんが、「現代文明の構造上当たり前」ということは「精神病」は「現代文明」でしか生じ得ない所産と考えているということでしょうか。それとも「精神病」を何らかの形で区分けしてある部分(もしくは大部分)が「現代文明」の所産であると主張したいのでしょうか。 前者であればその理由を、もし後者であればさらにどのように分けられるのか、具体的、説得的にご説明いただけますか。 >> 貴方にとって「精神障害」や「精神病」は自分の外部にある、つまり排除された、可能性のない、あくまで治療すべき「病気」にしかすぎないのでは?つまり治療者の態度ではないのかな。 > 違うと言えば違うし、そうだと言えばそうです。つまり日常生活に支障が出ないレベルでコントロールすることは可能だし、現に自分でそうしているつもりです。 (猫まんまさんへのレス投稿#31156より) 水原さんがご自分でコントロールしている「つもり」と仰る分にはとやかく申しませんが、少しお聞きします。 「精神障害」もしくは「精神病」の判断ポイントのひとつは、心のコントロールを自分で働かせられなくなった状態である、と貴方の発言を解釈しましたが、そうであればそういう状態に至ったというのは自分で認知できるものなのでしょうか。もし、「自分では認知、判断できないことが多い」「他者によって認知、判断される」(実際、水原さんは他者である毒芋虫さんに対してそのような判断をされていました)というのが貴方のお答えでしたら、「現に自分でそうしているつもりです」は全く内容のないものになります。この辺についてはどのようなお答えいただけますか。 > 現実の政治というのはその矛盾のなかにあるのだと思います。しかしその矛盾を「しょうがない」だけで放置しておけば、社会そのものが腐敗します。これは個人の内面の問題にしてもそうでしょう。重要なのはその矛盾を自覚することだと思います。 >(というのは、えらくフロイト主義の原理原則そのものな話なんですが…。要するに遮蔽記憶を取り除いてトラウマを現出させれば、精神障害から解放されるってヤツ。独創性のかけらもない投稿だなぁ) たしかに、フロイトは「遮蔽記憶を取り除いてトラウマを現出させれば、精神障害から解放される」という主旨の学説を唱えました。 引用の水原さんの発言によれば、その「理論」を社会や政治の問題にまで援用、適用できるかのように聞こえますが、もしそうだとすれば、それはほとんど検証的なものではないし、ご都合主義的な拡大解釈ではありませんか。 (# 複数の方へのレスでお忙しいでしょうから、レスはスローペースで全くかまいません。) フロイトの略歴紹介記事 http://www.d4.dion.ne.jp/~yanag/kora6.htm 精神分析とフロイトについて http://web.archive.org/web/20010418071707/www.geocities.co.jp/Technopolis/5298/psychoan.html |
||||||
![]() |