31296 返信 Re:「精神障害」をめぐる議論−精神障害はどこに行ってしまったのか? URL にょろ 2004/12/05 09:47
水原文人さん、こんにちは。

> 人間は本来非常に知能の発達した、頭のいい存在だと思います。自分の自尊心とか自己愛とかプライドが自分の知的・精神的、そしてなによりも人間的な成長にとって障害となっていることに無自覚で、本来の頭のいい自分をどんどん押し殺してバカいなっていく人がいるとしたら、

 「人間的な成長」「バカ」をどう了解すればいいのか難しい。高踏的な立場から「彼ら」を否定している、とも受け取れますが…、たとえば、宮台真司氏の言葉をかりれば「裏読み(「差別」の発見?)と梯子外しを自己目的化(人間的に成長しない?)して、内側に閉じるコミュニケーション弱者(=バカになっていく人?)」[1]というところでしょうか。と、自分で書いておきながらまるで違うような気もいたしますけれども(笑)。つまりあてずっぽうです。

> それは我々の問題ではなく、その人たち自身の問題でしょう。

 いや、その人たち自身は問題を自覚できないでしょう。それができれば「自己を捉えなおす」ことが可能だとおもいます。しかし、せいぜい、直結部分を隠蔽するためそれが「普通」だと正当化する程度か、あるいは少々もったいつけるとすれば根拠、前提といった形而上的な、スコラ議論的な、他者不在の信仰の告白を行なうか、相対主義的な「人それぞれですからね」という自尊心を犯されることへの防護、自閉をするしかない。とすれば、その問題は、それを発見してしまった人たちの問題とすることしかできないのではないでしょうか。

> ただ非常に気になるのは、そういう自らバカであることを選択し、自分自身を抑圧し続けることを選択した方々が、子供を持っていたりする場合ですね。その子が成長してどうなるかは、あまり想像したくないのですが…。そんことを考え込まざる現実はそこらじゅうにありますね。さっき週刊誌の中吊りで「『立派な親』ほど子供に殺される」みたいなのを見かけましたが…

 ご指摘のこともふくめて、同じ社会に属さざるをえない限り、我々の問題としてあらわれると思うのです。もちろん、直接的に当人へ問題に対して直面させることはなんらかの強制力でもなければ無理でしょう。ですから、コミュニケーションという言葉をつかったことが不適当なのかもしれません。コミットメント(かかわりあい)といえばマシか。

[1]金子勝、アンドリュー=デウィット、藤原帰一、宮台真司『不安の正体!』<筑摩書房>p.137